2019年7月3日水曜日

埼玉県 大川平三郎翁頌徳碑

大川平三郎翁頌徳碑

サイト 大川平三郎関係資料目録(大川平三郎について書かれたもの)
















製紙王 大川平三郎
大川平三郎について
 大川平三郎は、万延元年(1860年)10月に川越藩横沼村(後の三芳野村・現在の坂戸市)で川越藩士の次男として生まれる。

 明治5年、平三郎は叔父の渋沢栄一を頼って上京し、書生となり壬申義塾や大学南校で勉学に励んだ。しかし、明治4年の廃藩置県により、父修三は藩士の職を失い浪々の身となり、大川家の生活は困窮を極めていた。平三郎は、妹の渋沢夫人に度々借金をする母の姿を見るに見かね、ついに学業を中断し、明治8年渋沢の世話で王子の抄紙会社(後の王子製紙 現・王子ホールディングス㈱)に入社した。

 明治12年、20歳の時社命でアメリカに渡り、新たな製紙技術を習得して帰国し、従前の製紙原料のボロ布から稲わらに替えてその大量生産に成功する。明治17年にはヨーロッパに渡り、木材パルプ製造の方法を研究して、日本で初めて木材によるパルプ製造に成功する。また、製紙原料の木材を煮る釜を改良して、大川式ダイゼスターを考案するなど製紙技術の向上に多大な貢献をした。会社に繁栄をもたらした平三郎であったが、明治31年、会社幹部との対立により退社した。

 その後、王子製紙で培った知識・技術に加え、類まれな奮闘努力により九州製紙を始め中央製紙、樺太工業など次々と製紙会社を創業し、さらに当時王子製紙に次ぐ富士製紙をも傘下に収めた。さらに、製紙業を母体としてセメント・化学・電力・製鋼・金融等々、実に80有余に及ぶ多くの事業に力を注ぎ、実業界において縦横無尽な活躍をした。特に製紙業界では製紙王を呼ばれ、その名を後世に残した。

 また、平三郎は郷党の念厚く、当時、水害等で疲弊にあえいでいた三芳野村のために小畔川に堤防を築くとともに産業の振興や三芳野小学校の増新築・校庭の拡張に巨費を投じるなど、同村の発展に多大な貢献をした。さらに県内の若者のために大川育英会を設立し、多くの優秀な人材を育成した。

昭和3年4月には、産業界への多大な貢献が認められ、貴族院議員に勅選され、翌年には勲三等に叙せられ、瑞宝章を受けた。さらに、昭和9年には旭日中綬章を受けた。

 昭和11年12月30日惜しまれながら波乱万丈の生涯を閉じた。享年77歳。

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