2014年1月8日水曜日

「和華」新年号掲載 「新年を詠おう」投稿募集案内


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和華」新年号掲載
「新年を詠おう」投稿募集案内

ー募集要旨ー

 漢字文化圏の中での「言葉での遊び」は古来、東アジアの文化の一つとして社会に浸透してきました。系統的な言語が国々で定着して以来、人々は自分の感情や心に思うことを「詩歌」の形で表現することになり、長い歴史を経て、日本では「和歌」や「俳句」、「川柳」などが生まれ、中国では、「唐詩」「宋詞」「元曲」などへ変遷してきました。
 現代では、経済の発展やグローバル化により、様々な外来語が東アジアの国々の言語に強い影響を与えました。一方、「詩歌」というような伝統的な文化の一部が、忙しい人々の心の片隅に置かれてしまい、ついつい我々の記憶の中に消えつつある現実は、日本でも中国でも同じことでありましょう。そんな中で、「言葉での遊び」を通して、伝統文化の面白さを拾って再び味わうことには、いっそう重要な意味があると感じます。よって、この度、創刊まもなくの雑誌「和華」は、平成26年1月発刊予定の新年号に「新年を詠おう」コラムを設置し、投稿募集を開始いたします。皆様にはぜひ、ご遠慮なくお気軽にご投稿いただければ幸いです。

ー目 的ー
「言葉での遊び」を通して、日本と中国の伝統文化への理解と交流を深め、ひいては両国互いの「伝統の心」を思い出すことを目指します。

ー募集要項ー

テーマ: 新年又は新年と少しでも関わるテーマで創作してください。

募集期間:即日より平成25年12月15日まで

詩歌の種類: 特に制限はございませんが、簡潔的で短い文が望ましいです。(文章が特に長い場合はその他のコラムに移動させて頂く場合もございます)伝統的な「和歌」をはじめ「俳句」、「川柳」、「短歌」、「狂言」、「漢詩/詞」、「対聯」など、あるいは現代的な詩でも構いませんので、ご自由に創作してください。

投稿件数: お一人につき、2作品までとします。

作品のほか必要事項の記入:
1. 作品の種類および短い解釈を必ず添付してください。
※中国語による投稿も承りますが、日本語翻訳を添付されない場合は、こちらで勝手に翻訳させて頂きますので、なるべく確認はいたしますが、作品の解釈が作者の意図と異なってしまう恐れもあります。ご了承下さい。
2. 作者名とご年齢、ご在住の都道府県を記入して下さい。作者名は、筆名、頭文字でも構いません。
3. ご氏名(実名)およびご連絡先、お電話番号を添付してください。
4. その他ご連絡事項がございましたら、お書き下さい。

投稿方法:
Eメールにてご投稿をお願いいたします。
件名に「新年を詠おう投稿応募」とご記入の上、下記メールアドレス
waka@seeyouag.comまでご送信ください。内容をEメールに直接入力していただくか、ワード、PDF、テキストファイルなどのデータを添付しても大丈夫です。

お問合せ先:
waka@seeyouag.com「和華」事務担当までメールをください。

FACEBOOKページ:


雑誌「和華」日中民間交流誌 
https://www.facebook.com/pages/雑誌和華日中民間交流誌-/174996036037338

どうぞお気軽に御問合せください。

平成25年11月13日


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「春節に春聯を思う」

むかし、東方に度朔山(どさくざん)あり。

その山に桃の大樹あり、金鶏が住む。

大樹の東北に鬼門あり、鬼神が通過し人間界に現れる。

毎朝、金鶏が啼くまでに鬼神は戻る規則あり。

規則破りは門番の神荼鬱壘(しんとうつりつ)が捕まえ虎に喰わす。

いま、取り締まる門番なく、魑魅魍魎が跋扈する。

神荼鬱壘を敬い願うなら、自身が門番となり世を浄化できる。

心を闇に囚われず、闇の深淵から天を仰げば吉祥があらわれる。




程伊川  ウィキペディア 

程頤(てい・い、1033年 - 1107年)中国北宋時代の儒学者。字は正叔、伊川先生と称された。兄の程顥とともに朱子学・陽明学の源流の一人で、兄とあわせ「二程子」と呼ばれる。


程頤の学問は、兄・程顥の直覚的な学風とは対照的である。従来のように陰陽の二気を即宇宙の原理・「道」とするのではなく、「道」は陰陽の根拠・原理であると同時に、陰陽二気の働きによって創りだされた現象世界に内在し、それぞれの事物の「理」となっていると説く。これを「理一分殊」という。「気」を質料とするのは他の学者と同じであるが、「気」の存在や運動の因となるもの、形相としての「理」の存在を認めたのである。一物の理は、宇宙全体の理と同一であると考えることによって、道徳の淵源である「道」の尊厳を保ち、人の「性」をも「理」であると考える。「理」に絶対善・精神性をあて、「気」に相対性・物質性を与える。物質的なものの中にひそむ理を窮めることにより、人の「性」は本来の善を取りもどす。程頤は『大学』の「格物」をこのように「物の理を窮める」ことと理解した。程頤の理気二元論、「性即理」「格物」などの発想は朱熹に継がれた。主著は『周易程氏伝』『経説』など。

春聯(しゅんれん)

ウィキペディアより

 春聯(しゅんれん)とは春節の風習の一つ。赤い紙に各種縁起の良い対句を書き家の入口などに貼る紙のことである。

 古来中国の東方の海上に度朔山が位置し様々な鬼神が棲んでいるとされていた。度朔山(どさくざん)に桃の大樹があり、樹上には金鶏(キンケイ)が棲んでいた。桃の大樹の東北が鬼門であり、世の中の鬼神はこの鬼門を通過して人間界に出入りしていた。この鬼門を守っていたのが神荼郁垒という兄弟とであった。毎朝金鶏が啼くと夜中に人間界に出かけた鬼神は必ず度朔山に帰る規則になっており、神荼・郁垒兄弟は人間に危害を加えた鬼神を見つけると縛り付け虎に呑み込ませたため、全ての鬼神に恐れられていた。

 この働きにより後に神荼・郁垒兄弟は鬼神を懲罰する神仙とされ、正義と勇猛さの象徴として民衆の信仰対象となった。これより春節の際には桃から作った板に神荼・郁垒の名称を記して家の門の両側に置き、また門上には虎を描き、葦縄をかけることで神荼・郁垒の威厳により鬼神の侵入を防ぎ一年の平安を祈念した。板は桃符と称され現在の春聨の由来となった。また日本にもこの風習が伝わり、現在の門松注連縄へと繋がっている。

 時代が下るにつれ神荼・郁垒以外に秦琼や尉遅敬徳、孫武、趙雲、岳飛、更には『封神演義』の登場人物である燃灯道人などが神格化され桃符に記されるようになった。

 唐代になると邪神を追い払う意味が失われ、王安石の漢詩の中に「千門万戸曈曈日、総把新桃換旧符」と表現されるように願い事を書くようになっていったと考えられている。またかさばる桃の板から紙に材質が変わったのもこの頃である。『宋史』「蜀世家」によれば五代時代の946年(広政2年)の春節前、後蜀の皇帝であった孟昶が春聯に「新年納余慶、嘉節号長春」との記載があり、現在記録される最も古い春聨の対句となっている

 宋代になると民間にも春聨が流行したが、当時は桃符と称していた。春聯と命名されたのは明の朱元璋である。特に春聯を好んだ朱元璋は自ら春聨を記すのみならず、朝廷群臣から庶民に至るまで「春聨」を貼り出すように勅命を出したことに由来する。『燕京歳時記』にはこの春聯の隆盛が記録されている。

神荼鬱塁

魔物を門から入れない、門の守り神。

「神荼」と「鬱塁」は古代中国における兄弟の神の名前。

百鬼を支配し、従わないものは捕らえて、虎に食わせたという。

古代中国では、この二つの神と虎の絵を門に貼って、魔除けにした。


神荼鬱塁 しんと うつりつ 

神荼鬱壘

吉祥




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サイト  はなゆみ > 漢詩 > 王安石 

千門万戸曈曈日、総把新桃換旧符 王安石

元旦 宋 王安石

爆竹声中一歳除 春風送暖入屠蘇 
千門万戸瞳瞳日 総把新桃換旧符


爆竹の声中一歳除き 春風暖を送って屠蘇に入る 
千門万戸瞳瞳たる日 総て新桃を把って旧符に換う

爆竹の音がパパン鳴っているうちに、新しい年を迎えた。春風が暖かい風を屠蘇の中に運んできた。
初日がすべての家々に差し込むころ、どの家でも古いお札を換えて、新しいお札に貼りかえる。

 宋の時代、除夜には人々は明け方まで眠らずに酒を酌み交わしながら新しい年を迎えた。
悪鬼を退治するために爆竹を鳴らしました。屠蘇は病を防ぐために元旦に飲んだ。
 「桃」は桃の板に絵を描いた桃符のこと。この桃は邪気を払うということから桃符を門戸に取り付けて邪気を払った。
 鍾旭像はその風習を受け継いだもの。(漢詩歳時記 渡部英喜より)
                                               桃符
ウィキペディアより

 鍾馗(しょうき)は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする。
鍾馗の図像は必ず長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけている姿である。


鍾馗の縁起については諸説あるが、もともとは中国の代に実在した人物だとする以下の説話が流布している。
ある時、唐の6代皇帝玄宗(おこり、マラリア)にかかり床に伏せた。
玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。
夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった。
この伝説はやがて一般に広まり、17世紀の明代末期から清代初期になると端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた。

 日本では、江戸時代末(19世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになった。
 京都市内の民家(京町家)など近畿~中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10~20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる。
 ※見た目は閻魔さまに似ている。





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