ようっやくパンチョ・ビラの詳細が載っているサイトを見つけた。
英雄パンチョ・ビリャ
La Cucaracha
YouTube 1インストゥロメンタル 2メキシコ人の演奏 3メキシコ革命の時代写真
Una cosa me da risa
Pancho Villa sin camisa
Ya se van los carrancistas
Porque vienen los villistas
La cucaracha, la cucaracha,
Ya no puede caminar;
Porque no tiene, porque le falta
Marihuana que fumar
【ラ・クカラチャの謎 目次】
- 原曲の歌詞
- パンチョ・ビリャはどんな人?
- パンチョ・ビリャの生い立ち
- メキシコ革命とビリャ
- 復讐に燃えるビリャ
- ラクカラチャとの関係
- 残された謎
- パンチョ・ビリャの最期
- ソングブック 「ラクカラチャ」 歌詞とMIDI
http://www.worldfolksong.com/closeup/cucaracha/page2.htm
パンチョ・ビリャはどんな人?~メキシコの男の理想 "ムイ・オンブレ" と呼ばれた男~
「パンチョ・ビリャ」を知るためには、メキシコの歴史やメキシコ革命について簡単にでも触れておく必要があると思います。その前に、まずは彼を知る上で非常に役に立つ記述を「メキシコ物語 英雄パンチョ・ビリャの生涯」(渡辺建夫/朝日新聞社)より引用したいと思います。
=戦いに赴くパンチョ・ビリャ/出典:Wikipedia=
インディオの血の濃い貧農の息子として生まれ、青年時代を山賊として過ごし、革命の勃発とともに身一つで参加、神出鬼没のゲリラ戦で常勝将軍の名をほしいままにし、革命勢力の一方の領袖(カウデイリョ)として首都に乗り込んでいった男。
「北メキシコのケンタウロス(半馬人)」と呼ばれたほど馬がたくみで不死身、闘牛、闘鶏が大好きで、また行く先々で女を愛し、女のために何度も結婚式を挙げ、仲間の死にはポロポロ涙をこぼし、裏切り者には容赦なく弾をぶちこんだ男。メキシコの男の理想とされる「本物の男(ムイ・オンブレ)」と言われた男。その死後長くインディオ・農民の心に生き、うたわれ、語られつづけた男。
これだけでも、なんとなくパンチョ・ビリャという人間の輪郭は見えてきたと思います。それではさっそく彼の活躍した舞台であるメキシコについて簡単に見ていきましょう。
メキシコ革命までのメキシコの様子
マヤ文明・アステカ文明などで知られるメキシコは、16世紀始めから19世紀にかけてにスペイン人による征服を経験しています。その後、19世紀半ば(1846年~1848年)には米国との戦争により現在のテキサス・ニューメキシコ・カリフォルニア等の広大な領地を失っています。また、1862年から1867年にかけてフランスのナポレオン三世により内政干渉を受けるなど、常に他国からの脅威にさらされてきました。
19世紀後半にはようやく政治的にも安定してきたかに見えましたが、1877年に就任した当時の大統領ポルフィリオ・ディアスにより、一般国民(特に貧しいインディオ・農民等)の生活は著しく脅かされていきます。ディアスは、地下資源に対する国家主権という植民地時代以来の伝統を廃止し、鉱山・石油・鉄道などを次々に外資の管理下におき、国民の厚生には目もくれず、得た利潤を対外債務の返済や軍隊などに費やしていきました。
さらに、先住民の共有地・国有地などを極端に安い価格でメキシコ人有力者や外国人投資家に払い下げた結果大農園(アシェンダ)が形成され、農村では土地を奪われた人々が小作(ペオン)として大農園(アシェンダ)に生涯を縛り付けられ、自由のない貧困生活に喘いでいました。
そんな国民の不満が鬱積して今にも爆発しそうな非常に情勢不安定な時代に、メキシコ革命の英雄パンチョ・ビリャはこの世に生を受けるのです。
パンチョ・ビリャの生い立ち~絶大な支持を集めたメキシコの英雄~
パンチョ・ビリャが生まれたのは、ディアス政権誕生の翌年1878年6月5日でした。場所は、メキシコ北部のドゥランゴ州のサン・ファン・ゲル・リオの大農園(アシェンダ)で、彼の父は、アシェンダで働く小作農でした。ビリャが生まれたときに役所に届けられた名前は「ドロテオ・アランゴ」というそうで、フランシスコ・ビリャという名は、彼が成人後に自分で名乗ったものであるとのことです(後述)。
当時のメキシコ農民の99パーセントは自分の土地をまったく所有しておらず、人口1%以下の家族が全メキシコの85%もの土地を所有し、大農園という形で大規模な農業経営を行い、その地方の政治・経済をほしいままに支配していました。
彼の父は彼が幼い時に亡くなっており、長男であったビリャは、大農園で働き、母・二人の妹・二人の弟とともに、貧しいながらもなんとか懸命に一家を支えていました。
彼は16歳のとき、農園主と衝突して山へ逃げ込みます。彼はその地域の山賊などに加わり、家畜泥棒などをして生き延びていきます。ちなみに、稼いだ金は母親のもとに送り届けていたそうです。
一時期、ビリャはドゥランゴ州を荒らしまわっていた山賊の一味に加わっていましたが、警官隊との撃ち合いで一味の領主が死ぬと、ビリャはそれまでのドロテオ・アランゴの名を捨て、死んだ首領の名「フランシスコ・ビリャ」を名乗るようになります(ちなみに「パンチョ」とは「フランシスコ」の愛称)。
彼は山賊の名を継ぐことで山賊の首領となったのですが、単に偶然に名前を継いだだけではなく、彼には山賊の首領となるべき貫禄が、つまり人を惹きつけ統率する力があったようです。体も大きく、身長が180センチ、体重が90キロ近くあり、メキシコ人の平均からするとかなり大柄でした。
メキシコでは、山賊と泥棒はまったく違うものとされており(山賊は金持ちからだけ奪い、奪った金をときには貧しい者に分け与える義賊)、20代を通じて山賊としての名を高めていくにつれ、ビリャの名は土地の貧しいインディオ・農民にとって伝説的な響きをもつまでになっていきました。
マデロ革命~燃え上がる革命の炎~
1910年、ディアス独裁に反対して彼の再選禁止を唱えるフランシスコ・マデロによって、以後7年間にわたって続くメキシコ革命の口火が切られました。アメリカに亡命していたマデロは、滞在先のテキサス州サン・アントニオ市から、メキシコ国民に公然とディアス政権への反乱を呼びかける「サン・ルイス・ポトシ綱領」なるものを発表したのです。
すわなち、同年に行われた大統領選挙は無効であり、ディアスの大統領就任は違法であること、従って暫定的に自分マデロが臨時大統領となり、憲法にのっとり政治改革を行い民主政治を実現すると宣言。そのためにディアス政府へ宣戦を布告し、メキシコ国民に1910年11月20日をもって一斉に武装蜂起するよう支持する、というものでした。
マデロ革命が始まったとき、パンチョ・ビリャは32歳でした。彼は、この頃チワワ市の北のはずれに家と土地を購入しており、盗んだ家畜を解体して売り飛ばした経験を生かして食肉業を営んでいました。その商売上、ビリャは「アブラアム・ゴンザレス」という財務行政官と知り合うのですが、ビリャは反ディアス政権運動の中心人物であったゴンザレスにひそかにゲリラ部隊を組織するように頼まれ、メキシコ革命運動に加わることになるのです。
1911年3月にはビリャのゲリラ軍はマデロ臨時政府軍に合流し、解放軍北部第一師団として革命軍部隊の指揮官の一人として認められるまでになりますが、同年5月にマデロとちょっとした揉め事を起こしたことで部隊の指揮から外されてしまい、仲間達と分かれて一人チワワ市で、以前と同じ食肉業をしばらく営む時期を過ごします。
1911年5月末にディアスは大統領を辞任、国外へ逃亡し、同年11月にマデロが選挙によって正式な大統領に就任するのですが、1912年3月には当時解放軍のメンバーだったパスクアル・オロスコが、革命後の待遇の悪さからマデロに反感を抱いて反乱をおこします。ビリャはオロスコ討伐のために、食肉業をやめ、市の南西部の村や町、農園などをまわって義勇兵を募り、オロスコ軍と戦うことになります(1912年9月にはオロスコはアメリカに亡命)。
宿敵ビクトリアノ・ウエルタ登場~エリート軍人との確執~
そのオロスコと戦っていた時期に、後マデロ大統領の命令で、政府司令官ビクトリアノ・ウエルタ将軍の指揮下に入るのですが、根っからのエリート軍人であるウエルタとビリャの溝は深く、両者はまったくウマが合いませんでした。
ついにある日、あるささいな揉め事でビリャはウエルタの命令で逮捕され、処刑されることになったのですが、寸前のところでマデロの延期命令によって救われます。マデロはウエルタの顔を立てるためにビリャを陸軍刑務所に入れることで、事態を収拾しました。1912年6月のことです。しかし同年末にはビリャは刑務所を脱獄してアメリカのアリゾナ州へ逃亡しています。
復讐の炎に燃えるパンチョ・ビリャ ~ウエルタ許すまじ~
1913年2月ウエルタによるクーデターが起こり、マデロは殺害され、ウエルタが次期大統領に就任します。当時チワワ州知事をしていたアブラアム・ゴンザレスは、大統領に就任したウエルタへの忠誠を拒否したため、ウエルタによって逮捕され、汽車の車輪でひき殺されてしまいます。
1913年3月、ビリャはマデロの虐殺に報復するためにメキシコに帰国します。ビリャが心から敬愛していたマデロとゴンザレスは二人とも憎きウエルタの手でなぶり殺されてしまったのです。しかもそのウエルタは、かつて自分をささいな理由で銃殺しようとした人間なのですから、ウエルタに対する彼の復讐心は並大抵のものではなかったことでしょう。
マデロやゴンザレスといった有力な指導者を欠いたビリャは、今度は自分一人で義勇軍部隊をつくり、育て上げなければなりませんでした。しかし元から人望も厚くその名はメキシコ中に知れ渡っていた彼のことですから、地方の村や農園を回って瞬く間に義勇兵を集めてしまうのです。彼は結局、チワワ州北西部の山間部にある小さな町アセンシオンを基地として1913年春から夏にかけて数ヶ月こもり、北メキシコでもっとも強力な革命軍部隊を作り上げていきました。
護憲軍北部師団の誕生~次々と集結するビリャ軍~
ビリャは、1913年8月にはアセンシオンを出て南に向かい、各地のウエルタ軍への攻撃を開始します。数百キロ離れたトレオン攻略のために移動中、各地の首領たちがそれぞれの配下を連れてビリャ軍に続々と加わり、最初数百名ほどだったビリャ軍は数千の兵を擁する大軍に膨れ上がっていたのです。
トレオン市を目前にしたナサス河畔のある大農園の館に宿営したとき、彼ら首領たちは合同作戦会議を開きます。会議に出席した首領たちは、それまで各地でバラバラに政府 軍とゲリラ戦を展開していた雑多な武装集団の長たちでしたが、これをひとつに統合して、司令官をフランシスコ・ビリャ(パンチョ・ビリヤ)とする「護憲軍北部師団」を結成することに合意したのです。この北部師団がいわゆる「ビリャ軍」と呼ばれる軍隊となっていくわけです。
さて、「ビリャ軍」が形成されるまでを駆け足で見ていきましたが、大体流れはつかめたでしょうか?まあ流れが分からなくても特に問題はありませんが、このへんの歴史的事実に興味があるかたは、後述の参考文献のリストの中にある「メキシコ革命物語」(渡辺建夫著)を読んでみることをオススメします。図書館にもあると思います。
次は、この「ビリャ軍」と「ラ・クカラチャ」との関係について見ていきます。
パンチョ・ビリャ軍とラクカラチャの関係とは?
ビリャ軍とラ・クカラチャの関係について、非常に有益な記述が「メキシコ革命物語」(渡辺建夫著)に記されていますので、ここで引用します。
1914年12月4日、朝はやくタクバを発ったビリャは少数の護衛だけをつれて、昼過ぎ首都南郊の町ソチミルコに着いた。この町でサパタと会談するためだった・・
・ビリャの一行は町の入り口で、サパタの秘書モンターニョの出迎えをうけ、さらに色とりどりのテープで飾られた大通りでサパタ本人とその家族の出迎えをうけた・・・
町のバンドが陽気に演奏し、小学校の子供たちが歌うなかを通り抜け、二人の領袖(カウデイリョ)は小学校の校舎のなかの一室に入っていった・・・
窓からビリャとサパタのために町の者たちが歌うサパタ派の愛唱歌「アデリータ」の歌声が流れてきた・・・哀調をおびた「アデリータ」が終わると、ビリャ軍の陽気な愛唱歌「ラ・クカラチャ」のメロディにのって替え歌が始まった・・・
この文章の最後の方に「ビリャ軍の陽気な愛唱歌」として「ラ・クカラチャ」が歌われていたことが記されています。おそらくこの「ビリャ軍」というのは前のページで見たように「北部師団」のことだと思われますが、この北部師団の最高司令官であるビリャによってこの「ラ・クカラチャ」が愛唱歌として取り上げられたのでしょう。
何らかの戦争・紛争時において、「ラ・クカラチャ」のような愛唱歌を軍歌として用いることはよく行われていることで、「ラ・クカラチャ」以外によく知られているものとしては「友達賛歌」として有名な「リパブリック・バトル・ヒム(グローリー・ハレルヤ)」などがあります(ソングブックに掲載しています)。
ちなみにこの「ラ・クカラチャ」には本当に無数の歌詞がつけられていて、本当にどれを「ラ・クカラチャ」の歌詞として把握していいか分からない程なのですが、それを表す一例として、先ほど引用した「メキシコ革命物語」(渡辺建夫著)にも次のような「替え歌」(日本語訳)が掲載されています。
カランサの鼻ヒゲで 新しい紐飾りあんでやろ
おいらの将軍パンチョ・ビリャさまの ソンブレロのために
カランサの鼻ヒゲで 長い投縄あんでやろ
おいらの将軍サパタさまの 馬つかまえるために
パンチョ・ビリャの最期
ビリャ軍は1920年の和平協定で武装解除され、武器を捨てたビリャたちは、畑を耕すため故郷のチワワ州・ドゥランゴ州へと帰っていきました。彼は、政府から給付された農園で、彼の三人の妻と6人の子供、護衛の男達や元同志その家族たちと住み、農業経営に乗り出していきました。ビリャ自身も仲間達と土まみれ汗まみれになって働いていたといいます。
農業経営もうまくいき、新たにホテル経営もするなどすべて順調だった彼ですが、古い友人の子供の名付け親になるために出かけた帰りの街道で、街の片隅で待ち構えていた数人の男達の銃弾を受け、帰らぬ人となっています。フランシスコ・ビリャ45歳、1923年7月20日のことです。
彼の名はずっと長い間メキシコ革命の正史から抹殺されつづけていました。革命権力がビリャと敵対関係にあったオブレゴン一党にずっと握られつづけてきたからです。様々な議論の末、彼の名がメキシコ議会で革命の功労者として認知され議会の壁面にその名が刻み込まれるまで、彼の死後43年かかっています。そしてその7年後の1973年に行われたビリャ50周年忌の式典に、ときの大統領エチェベリアが出席して、彼の名誉は完全に回復されることとなりました。
参考文献
・「メキシコ革命物語 英雄パンチョ・ビリャの生涯」/渡辺建夫/朝日新聞社
・「メキシコ革命 近代化のたたかい」/増田義郎/中央公論社
・「ラテンアメリカ 人と社会」/中川文雄・三田千代子/(株)新評論
・「国際情勢ベーシックシリーズ⑨ラテンアメリカ」/加茂雄三 他/(株)自由国民社
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
メキシコ革命時のエピソード
1910.10
フランシスコ・マデロ、サン・アントニオでサン・ルイス・ポトシ綱領を発表。 革命が勃発した。
1911.1
マデロの軍、ヌエバス・カサス・グランデスで政府軍と闘い敗れるも、各地で反 乱が発生する。
1911.5
デイアス政権崩壊し大統領は亡命。
1911.6
マデロ、首府メキシコ市に入る。
1913.2
マデロ大統領に対しウエルタ将軍が叛乱を起こす。 当時の駐メキシコ代理公使堀口九万一は殺害されたマデロ大統領の家族を一時公邸に保護した。 コアウイラ州の日本人移民多数が失業し、その内90人がウエルタ軍に、十数人が反乱軍に加わった。このほかにも各地で多数の日本人移民が革命戦争に参戦して名を馳せた。
1913.11
軍艦 出雲(艦長森山慶三郎大佐)が在留民保護のためメキシコに出動した。 マンサニーリョで海兵数十人を上陸させ、公使館防衛のため陸路メキシコ市に向かわせると共に、艦長も一ヶ月後にメキシコ市入りしてウエルタ将軍の歓迎を受けた。出雲は1915年4月日本に帰航した。
1915.10
米国、カランサ政権を承認。
1916.1
ウエルタ死亡。ビリャ追いつめられてゲリラに転じる。
1917
アメリカ上院で禁酒法が成立し、1919年1月から発効した。 第一次世界大戦中に綿花価格が高騰した。 1917年から24年にかけてカリフォルニア南部の日本人移民の一部が同州で排日土地法が成立したことを嫌って南下メヒカリに到り、同地で綿花栽培に従事した。また、革命の戦乱を避けてメキシコ北部諸州からも日本人が北上メヒカリに到り、同地に日本人経営の農園が増加した。同地の在留邦人数は多い時には1000人に達した。 しかし、1934年以降ラサロ・カルデナス大統領が農地解放運動を開始すると、日本人移民の所有した多くの農園及び開拓農地が接収されることとなった。
1923
関東大震災に際して、メキシコ政府・民間は総額14万円の義捐金を送った。
1924
日墨通商航海条約が調印され、翌1925年に発効した。 この年日墨協会が設立され森山慶三郎海軍中将が初代会長となった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
動画 字幕なし
映画「闘うパンチョ・ビラ」
動乱続く1912年のメキシコ。アメリカ人の銃器商人リー(ロバート・ミッチャム)は、密輸の機関銃を反革命派のラミレス大尉に売り渡すためメキシコの荒野に飛行機で着陸した。
取り引きをすましたリーは、カジ屋ゴンザレスの家に寄宿したが、そこの娘フィナに一目ぼれ。恋の時間も束の間町には、反革命軍が暴れこんできた。この暴動のさなか、パンチョ・ビラ(ユル・プリナー)のひきいる革命軍が逆襲をかけ、反革命派の兵士を捕虜にした。
そしてリーも反革命派に武器を売ったということで投獄されてしまった。
しかし、リーは飛行機を持っている。戦略的には絶対有利だ。ビラと、副官のフィエロ(チャールズ・ブロンソン)は、リーを釈放した。以後リーは革命軍に加わり、飛行機を利用して、味方を有利に導いていった。この3人は、女性をめぐって多少の争いこそしたが、まずは作戦は順調に進んでいった。
ところが、ビラをリーダーとする、この隊の勝利の報を喜ばない男がいる。マディロ大統領から革命軍総司令官を任命されているハルター将軍である。彼は野心家で、ビラの勇名が、とどろくことを喜ばない。
そしてある時、ビラの軍とハルターの軍が、共同で、ラミレス大尉が率いる反革命軍の砦を攻撃する作戦が開始された。ビラの軍が危機におちいった。だがハルターは助けようとしない。
そこで活躍したのがリーの飛行機である。たちまちビラの軍が有利となり砦をおとしいれた。ビラは占領した町の名士から軍資金をまきあげた。だが、これを口実に、ハルターはビラを捕まえ、リーも飛行機盗難罪でとらえられた。
しかし、リーは護送の途中で逃げ出し、ビラがまきあげて隠してある軍資金を失敬して故郷へ帰っていった。これだけあれば老後は悠々自適だ。
ところがある日、ビラが副官フィエロを連れて追ってきた。この資金で、もう一度、解放軍を組織して戦おう--。自適の生活に入ったリーは断り、2人はメキシコに帰っていった。
しかしリーは、一度は断ったものの、男の友情にほだされて、飛行機でパンチョ・ビラの後を追うのだった。
ジョニー・デップが、メキシコのロビンフッドと呼ばれた革命家を演じる?
2009年12月7日
[シネマトゥデイ映画ニュース] ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した映画『アリゾナ・ドリーム』でコンビを組んだジョニー・デップとエミール・クストリッツァ監督が、新作映画で再タッグを組むかもしれない。
映画サイトColliderなど複数のメディアが伝えたところによると、ジョニーがクストリッツァ監督の新作『セブン・フレンズ・オブ・パンチョ・ビリャ・アンド・ザ・ウーマン・ウィズ・シックス・フィンガース』(原題)への出演交渉中とのこと。
映画は、メキシコ生まれでテキサス育ちの作家ジェイムズ・カルロス・ブレイクの伝記小説を基に、革命家パンチョ・ビリャ活躍と、これまでどの伝記も取り上げてこなかったようなビリャとその仲間たちがパーティーや踊り、戦い、盗みを陽気に行ってきたことを描く予定だ。
パンチョ・ビリャは、メキシコ革命で活躍した革命家で、貧農出身の彼は民衆の英雄であり、メキシコのロビンフッド、「本物の男(ムイ・オンブレ)」と呼ばれた。
ロバート・ロドリゲス監督の映画『レジェンド・オブ・メキシコ/デスペラード』でジョニーと共演したサルマ・ハエックも出演交渉中だ。ジョニーの来年のスケジュールがいっぱいなため、撮影開始は再来年の2011年になる見込みだ。
パンチョ・ビリャ役は、過去にユル・ブリンナーが1968年の映画『戦うパンチョ・ビラ』で演じており、実際のビリャはジョニーと同じネイティブ・アメリカンの血を引いている。映画は全編スペイン語で製作される予定で、スペイン語のせりふをしゃべるジョニーがスクリーンで見られるかもしれない。
ジョニー・デップが、メキシコの革命家パンチョ・ビリャ役を降板!
Mexicanos, ¡viva México!(メキシコ人よ、メキシコ万歳!)より
あらら、ジョニー降板……
ジョニー・デップが、メキシコの革命家パンチョ・ビリャ役を降板!代役は、ガエルかベニチオか?
[シネマトゥデイ映画ニュース] カンヌ国際映画祭でパルムドールを二度受賞しているエミール・クストリッツァ監督が手掛ける予定の映画『ワイルド・ロージズ、テンダー・ロージズ(原題) / Wild Roses, Tender Roses』で主役を演じる予定だったジョニー・デップが降板したことがLatinoreview.comによって明らかになった。
これは、作家ジェイムズ・カルロス・ブレイクの小説「ザ・フレンズ・オブ・パンチョ・ビリャ(原題)」をベースに映画化した作品で、パンチョ・ビリャとその仲間達の戦い、盗み、パーティーなどを通しての交流を描いた作品だ。パンチョ・ビリャはメキシコ革命で活躍した革命家で、さらに貧農出身で民衆の英雄でもあり、メキシコのロビンフッド「本物の男(ムイ・オンブレ)」とも呼ばれていた男だ。
これまでジョニー・デップは、映画『アリゾナ・ドリーム』でクストリッツァ監督とタッグを組んでいたが、今回スケジュールの都合で降板したようだ。その代わりに現在、ベニチオ・デル・トロ、ガエル・ガルシア・ベルナルがジョニーの代役候補として挙がっているそうだ。
ちなみにこの映画のタイトルは以前、『ザ・セブン・フレンズ・オブ・パンチョ・ビリャ・アンド・ザ・ウーマン・ウィズ・シックス・フィンガーズ(原題) / The Seven Friends of Pancho Villa and the Woman With Six Fingers』であったが、上記のタイトルに変更されている。
すでにサルマ・ハエックの出演が決定していて、演技派のベニチオとガエルなら、どちらに決まっても興味深い作品になりそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その他の映画
『革命児サパタ』(1952年)エリア・カザン監督。出演、マーロン・ブランド、アンソニー・クイン。脚本、ジョン・スタインベック。
チコグランデ Chicogrande [メキシコ映画]
おはなし
メキシコ革命において、頭領のパンチョ・ビリャへの忠義を尽くした無名の英雄にスポットを当てた作品。
パンチョ・ビリャが国境を越えてニューメキシコ州コロンバスを襲撃したのをきっかけに、アメリカは“懲罰隊”を派兵するという大義名分を掲げメキシコに侵攻する。本作が描き出すのはちょうどそんな時代である。
チコグランデという男はパンチョ・ビリャを守り抜くために身命を擲つ覚悟をしている。アメリカ軍前衛部隊のフェントン少佐は“北方のケンタウロス(半人半馬)”と異名をとったパンチョ・ビリャの身柄を確保するまでメキシコ中を探し回る覚悟である。
そしてアメリカ軍の軍医であるティモシー・ウェズリーはメキシコという不可思議で不可解な国の特性と、凄まじい拷問に遭ってもなお頭領を守り抜こうとするメキシコの民の気質を理解しようと日々自問自答を続けていた。
韓国版パンチョ・ビラといえば、「快刀ホン・ギルドン」
代官山の蔦屋 販売されていないDVDをその場で作成販売
パンチョ・ビリャ ウィキペディア
ホセ・ドロテオ・アランゴ・アランブラ(José Doroteo Arango Arámbula、1878年6月5日 - 1923年7月20日)は、メキシコの革命家。パンチョ・ビリャ(Pancho Villa)の愛称で知られる(「パンチョ」は「フランシスコ」の愛称)。スペイン語の発音の関係上、ビーリャやビジャ、ビージャとも表記される。
生まれ
彼はドゥランゴ州サン・フアン・デル・リオのラ・コヨータダで、大農園で働くインディオ系の小作農の息子として生まれた。父親は彼が幼少時に死に、母と二人の妹、二人の弟と暮らしていたが、16歳の時に農園主と衝突しチワワ州で山賊に加わった。警官隊との銃撃戦で山賊の首領が死ぬと、彼はその名「フランシスコ・ビリャ」を名乗るようになり、山賊を率いることとなった。彼は追い剥ぎから家畜泥棒まで及ぶ犯罪のために数回捕らえられたが、コネを通じて安全に釈放された。
その後ビリャは盗んだ家畜を売り払っていた経験を生かし、食肉・屠殺業を営んでいたが、チワワ州の財務行政官アブラーム・ゴンーサレスに出会い、革命運動に加わることになる。ゴンサーレスはポルフィリオ・ディアス大統領の独裁に反対するフランシスコ・マデロの支持者で、彼はビリャに基礎的な教育を施し、その目を政治に向けさせた。このときから生涯の終わりまで、ビリャは自身の使命を人々のための革命で戦うことと考えるようになった。
革命
1911年3月にビリャはマデーロを支持し、ディアスの連邦軍とのシウダ・フアーレスの戦いに加わった。5月末にはディアスが大統領を辞任、国外逃亡し11月にはマデーロが選挙の末大統領に就任する。翌年の3月に解放軍のメンバーだったパスクアル・オロスコが反乱を起こし、ビリャは義勇兵を指揮しビクトリアーノ・ウエルタ将軍の元でオロスコ軍と戦う。オロスコは9月にアメリカに亡命するが、その戦いのさなかの6月、ビリャはウエルタの命令で逮捕され、処刑の命が下される。ビリャはマデーロ大統領の命令で処刑が延期され、陸軍刑務所に収監されたが同年末には法廷書記官カルロス・ハウレギの手助けで脱獄しアメリカのアリゾナ州に逃亡する。
1913年2月にウエルタはクーデターを起こし、マデーロを殺害、大統領に就任した。当時チワワ州の知事だったゴンサーレスはウエルタによって逮捕、殺害された。ビリャは自分の理解者がウエルタによって殺害されたことで彼に対する復讐心を燃やした。
ウエルタのクーデターに反対する動きが、コアウィラ州知事ベヌスティアーノ・カランサを筆頭に起こった。ビリャは彼の元に集まった兵達と共に革命軍に加わり、カランサを第一統領とする「護憲軍」が結成された。ビリャは8月にはアセンシオンを出て南に向かい、ナサス湖畔での会議で「護憲軍北部師団」の司令官となる。このころ、ジョン・リードが北部師団と行動を共にしている。同年10月に、ビリャは奇策によって米国との国境の要衝シウダ・フアーレスを占領、11月には反撃するウエルタ政府軍をフアレス市近郊のティエラ・ブランカで破り、ひきつづき州都チワワ市を占領してチワワ州全域を解放した。翌年4月には鉄道の要衝トレオンを攻略。ウエルタは7月に退陣し、スペインに亡命した。同月にカランサが暫定大統領に就任するが、既成の体制を維持しようと旧支配層との妥協を図ったカランサに対し革命勢力は反発、ビリャは「メキシコ国民に対する宣言」を発表する。
10月に革命軍の代表者によるアグアスカリエンテス会議が開催され、エウラリオ・グティエレスが臨時大統領に指名されるがカランサはこれに反発。ビリャは正規軍の総司令官に任命される。両者は各地で戦火を交えるが、その隙の11月26日、エミリアーノ・サパタの率いるサパタ派がメキシコシティを無血占領、12月7日ビリャ、サパタ、グティエレスの三者会談でサパタ派がメキシコシティを防衛することで合意した。グティエレスはカランサと秘密交渉を行い、ビリャによって処刑指令が出されるが逃亡する。
一方のカランサはソノラ州軍の司令官アルバロ・オブレゴンと手を結びベラクルスから反撃、国軍のほとんどがカランサ側に付き、サパタ派は敗走しメキシコシティがオブレゴン軍の手に落ちる。オブレゴン軍は1915年の4月にグアナファト州セラヤでビリャ軍と激突、塹壕と機関銃を組み合わせた新戦法を取るオブレゴン軍に対し、騎兵の突撃を繰り返したビリャ軍は大敗し、チワワ州に敗走しゲリラ戦を行うようになる。7月に全土をほぼ平定したカランサは大統領に就任する。アメリカ合衆国も10月19日にカランサを承認する。11月、第二次アグアプリエタの戦い。
アメリカ軍のビリャ討伐遠征
ビリャはカランサを承認したアメリカに抗議、1916年1月11日にチワワ州内で列車に乗っていたアメリカ人鉱山技師ら16人を殺害、3月9日には1,500人を率いて国境を越えニューメキシコ州コロンバスを襲撃(コロンバスの戦い)、アメリカ騎兵隊の駐屯所を攻撃し100頭の馬やラバをとらえ、町を燃やし17人の市民を殺した。
ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領は3月15日、懲罰のための遠征部隊12,000人をジョン・パーシング将軍の指揮下メキシコに派遣した。このときのパーシングの副官がジョージ・パットン中尉である。この遠征はアメリカではパンチョ・ビリャ遠征として知られる。遠征中にアメリカ軍初の航空機による戦闘任務が下され、索敵のため8機のカーチスJN-2が3月19日に飛行している。しかしチワワ州で圧倒的な人気のあったビリャは、米軍に捕らえられることはなかった。6月に入り、アメリカ軍はカリサル村でビリャ軍と誤認してメキシコ政府軍と衝突、カリサル事件としてアメリカとメキシコの緊張が高まった。事件が原因となり遠征は失敗、1917年1月28日にビリャの探索は打ち切られた。
1920年の和平協定でビリャ軍は武装解除され、ビリャは故郷のチワワ州で広大な土地を得て3人の妻と6人の子供、革命活動の同志やその家族たちと農場を経営し農園主として平和に暮らしたが、1923年7月20日に友人の子供の名付け親になるためパラル市に出かけた帰り道で銃撃を受け暗殺された。暗殺犯は不明のままで終わったが、プルタルコ・エリアス・カリェス、ホアキン・アマーロ、アルバロ・オブレゴン等の軍部が関係していたとされる。ビリャはメキシコの大衆から英雄として扱われたが、メキシコ革命正史上では無視され続けた。彼が議会で正式に革命の功労者とされたのは死後43年経った1967年のことであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シバリー・コーポレーション ブログ「聴くや学ぶ」
Vampires - Thievery Corporation
YouTube
They'll gain the world but lose their souls
They'll gain the world but lose their souls
Don't believe politicians and thieves
They want our people on their bended knees
Pirates and robbers, liars and thieves
You come like the wolf but dressed like the sheep
If you go to Lagos what you find, vampires
If you go to Kinshasa what you find, vampires
If you go to Darfur what you find, vampires
If you go to Malabo what you find, vampires
Lies and theft
Guns and debt
Life and death
IMF
When the bank man comes to your door
Better know you'll always be poor
Bank loans and policies
They can't make our people free
You live on the blood of my people
Everyone knows you've come to steal
You come like the thieves in the night
The whole world is ready to fight
If you go to Lagos what you find, vampires
If you go to Kinshasa what you find, vampires
If you go to Darfur what you find, vampires
If you go to Malabo what you find, vampires
Lies and theft
Guns and debt
Life and death
IMF
They'll gain the world but lose their souls
They'll gain the world but lose their souls
You live on the blood of my people
Everyone knows you've come to steal
You come like the thieves in the night
The whole world is ready to fight
If you go to Lagos what you find, vampires
If you go to Kinshasa what you find, vampires
If you go to Darfur what you find, vampires
If you go to Malabo what you find, vampires
Lies and theft
Guns and debt
Life and death
IMF
Read more: Thievery Corporation - Vampires Lyrics | MetroLyrics
They'll gain the world but lose their souls
奴らは世界を手に入れるが、魂を失う
They'll gain the world but lose their souls
奴らは世界を手に入れるが、魂を失う
Don't believe politicians and thieves
政治家と泥棒(銀行家)を信じるな
They want our people on their bended knees
奴らは人々を跪かせたいんだ
Pirates and robbers, liars and thieves
海賊に強盗、嘘つきに泥棒
You come like the wolf but dressed like the sheep
おまえらは羊のように見せかけ、狼のようにやってくる
If you go to Lagos what you find, vampires
ラゴス(奴隷貿易で栄えたナイジェリアの大都市で大銀行
など多国籍企業の拠点)に吸血鬼がいる
If you go to Kinshasa what you find, vampires
キンシャサ(ベルギーに搾取されてきたコンゴの首都)にも
吸血鬼がいる
If you go to Darfur what you find, vampires
ダルフール(奴隷貿易で栄え、石油資本に搾取されるスーダン
西部の地域)にも吸血鬼がいる
If you go to Malabo what you find, vampires
マラボ(石油資本に搾取されるギニアの首都)にも吸血鬼がいる
Lies and theft
ウソと盗み
Guns and debt
銃と債務
Life and death
生と死
IMF
人々の生き血を吸うIMF(国際通貨基金)
When the bank man comes to your door
銀行マンが家に来る
Better know you'll always be poor
人を騙して財産を毟り取るために
Bank loans and policies
ローンを組ませて容赦ない取り立て
They can't make our people free
彼らは人々を自由にしない
You live on the blood of my people
おまえらは人々の生き血を吸って生きている
Everyone knows you've come to steal
おまえらのしてることは詐欺だってみんな知ってる
You come like the thieves in the night
深夜に忍び込む盗人のようだ
The whole world is ready to fight
いま世界が立ち上がろうとしている
(詩曲:シ―バリー・コーポレーション)(訳:NAOKI)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
映画「ローン・レンジャー」 Blogger
パンチョ・ビリャと通貨切り替え
返信削除ビリャが、期限を決めて通貨切り替えを呼びかけ、古い通貨を交換するように呼びかけた。無視して交換に応じなかった地主は古い通貨が使えなくなり困った。(ネットで読んだが見つからない)