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2026年7月19日日曜日

メッツァの北欧花火2026 7月~9月

 

メッツァの北欧花火2026





\北欧各国の大使館おすすめミュージックで楽しむ湖畔の花火!/

北欧8ヶ国の大使館・大使館スタッフ推薦の音楽をBGMに、各国の国旗の色をイメージした打ち上げ花火を約15分間にわたって披露。
北欧各国の言葉で歌われている伝統的な民族音楽やポップスを含む現代音楽など本国でも人気の音楽と一緒に、夜空と湖畔に広がる大輪の華を眺める特別なひと時をお過ごしいただけます。音楽と花火がシンクロし、夜空を染め上げる感動の瞬間をお見逃しなく!

開催期間

2026年7月18日(土)19日(日)25日(土)

8月1日(土)8日(土)9日(日)10日(月)11日(火・祝)12日(水)15日(土)

9月12日(土)19日(土)20日(日)21日(月・祝)22日(火・祝)

※8月9日(日)は「ムーミンの日記念 花火大会2026」を開催(予定)

時間

打ち上げ時間:7・8月は19:30~、9月は19:00~(約15分間)

受付開始時間:15:00~打ち上げまで(本部テントにてチケットをご提示ください。)

入場時間:17:00~ ボートデッキ観覧席、湖上桟橋観覧席は18:00~

場所

メッツァビレッジ各所

参加費

■鑑賞無料

■<必ず座れる>お得なギフトチケットが付いた特別観覧席

メッツァでのお買い物がお得に楽しめるギフトチケット付きの特別観覧席を販売します。席が確保されているので、場所取りの苦労は不要。ゆっくりと思う存分花火を楽しむことができます。

 ギフトチケット引き換え時間:15:00~打ち上げまで

 引き換え場所:花火本部テント(メッツァビレッジインフォメーション付近)

※購入後のキャンセルは開催2日前の 17:00 まで可能、全額返金いたします。以降はキャンセル不可、 返金いたしかねます。また荒天などの都合により開催中止となった場合は返金いたします。

※おとな・こども同一料金。未就学児は無料ですが、席のご用意はありません。

※ご自身での椅子等の持ち込みはできません。

※当日購入は16:00まで可能です。


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後援:アイスランド大使館、エストニア大使館、スウェーデン大使館、デンマーク大使館、ノルウェー大使館、フィンランド大使館、ラトビア大使館、リトアニア大使館

協力:本家神田煙火工業有限会社


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2014年7月10日木曜日

フィンランドの「スーパー猿身悪鬼」

2014年7月10日




 ミコンフィンランドショップにて、「サルミアッキ」を購入。

2012年 料理がまずい国ランキング」で前から気になっていた飴だ。

(久しぶりにお店のサイトを見ると、どうやらお店の人もサルミアッキの魅力に気づいたらしく、かなり品ぞろえが豊富になっていた。)


食べてみて、思った。

「猿身悪鬼」という字がふさわしい。

日本なら甘辛団子で、甘さと辛さを組み合わせる味がある。
そんな感覚でフィンランドの昔なつかしい味なのだろう。

フィンランドのサルミアッキは、リコリスという
甘草の甘さ、塩化アンモニウムという塩味がする。さらに甘草の生薬臭さと塩化アンモニウムの仄かなアンモニア臭がミックスしている。


これを粉末状にすれば、どんな料理も不味くなる魔法の調味料になる。

とっておきの人に魔法をかけてみたくなった。

しかし、まれに中毒になるほど好きになる人もいるそうなのでご注意を。








2014年5月28日水曜日

フィンランド料理

2014年5月28日








2015年


フィンランドより吉祥寺に日本初上陸 ドーナツ&コーヒーショップ【Arnolds】アーノルド

Web facebook twitter


2014年

11月10日 ワールドブレックファーストオールデイ Blogger サイト




7月10日 ミコンフィンランドショップ Blogger サイト



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・国旗 このページの短縮URL 



国旗の意味】サイト「世界の国旗」より

Finland

白地に水色のスカンジナビア十字の国旗は、独立後の1918年に採用された。白と水色の色使いについては、1870年にフィンランドの詩人・作家で児童文学者としても名高いサカリ・トペリウスが、「祖国の湖の青さと雪の白さ」をうたい、それ以後、国旗にこの2色が使われるようになった。なお、フィンランドには政府旗があり、水色の十字が交差している部分に国章が描かれている。 

○地図、歴史

・外務省の地図

フィンランド共和国地図

・Googleマップ



・その他
フィンランド:「知の楽しみ」は白夜がよく似合う

「本との対話」が教育の基本にあるという。

日本の国語教育というのは「この時、主人公はどう思いましたか?」「この時、作者は何を意図したのでしょうか?」などという、伝統的な日本人の心性理解とそれに基づく日本的倫理観の教育に主眼を置いている。

 だがフィンランドでは、意見そのものが正しいかどうかは、教師を含めて誰にも判断できないから、意見そのものを評価対象にしない。その代わり、意見に至るまでの過程や根拠を、いかに説得力を持って説明できるか、が重要な評価対象となる。

地図

〇紋章(ウィキペディア)

国章  cf.紋章学



フィンランドの国章には、赤地に戴冠した金色のライオンが描かれている。右前足は剣を掲げる腕に置き換えられ、後足は剣を踏みつけている。またライオンの周りには9個の銀色の薔薇がちりばめられている。この国章が公式に制定されたのは1978年であるが、1580年より前には既に作成されていたことが分かっている。

各国料理の検索結果 


 ウィキペディア 食文化記述なし  料理サイト

 フィンランド料理は、イギリス料理と並び評判が良くない。たとえば2005年、当時のフランス大統領ジャック・シラクは、フィンランド料理について「欧州で最悪の料理の1つで、英国料理よりはわずかにおいしいだけ」と酷評したと報じられた ウィキペディアより

 → 2006年の記事 「仏大統領、酷評したフィンランド料理に舌鼓 - フィンランド」

 クックパッド サイト 20品

 e-food サイト

 食べログ サイト 3件 

 AllAbout サイト  ヘルシンキレストラン こばやしあやな

 画像検索

 その他の記事

 ・政府観光局 


MAPS フィンランド より

ライ麦パン サルミアッキ ミートボール レイパユースト ルーネベリトルテ ミートボール カレリアパイ ブッラ エンドウ豆のスープ 


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リンク


大使館 サイト facebook  

友好団体 

イベント

・奥様運び世界大会 
・長靴投げ世界大会
・サウナ我慢大会
・雪合戦ヨーロッパ大会 
・泥んこ参加ー世界大会
・国際スキッフル音楽祭


参考 


・国際理解教材 サイト 120ヶ国あり 現在PDFだけどfacebookで参加型の教材に

  フィンランド共和国 

・Embassy Avenue 在日大使館オフィシャル サイト集

・在外公館リスト 外務省

・食い旅193ヶ国inTOKYO アメブロ

・地球の歩き方 サイト

・HIS サイト

・大使館レポート一覧 サイト 



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・世界の料理 

サイト

 National Dish(国民食)を知ると、その国がみえてきます。このサイトは、その楽しみの共有を目的とし、料理、食文化、レシピなどのコンテンツを網羅していく、世界の料理の総合サイトです。

Presented by NDISH。 

JP NDISH 


 旅と暮らしが好き。渡航国は世界238ヶ国で趣味は世界の料理の研究と調理と考察とまとめと心底楽しい人生と自分のやりたいことができる時間です。byあづさ


・オールレシピ 国別料理


サイト:アジア、ヨーロッパ、北米、カリブ海、南米、オーストラリア、アフリカ、地中海料理、郷土料理、

クックパッド国別検索結果


 ~アジア編 NAVERまとめ

~ヨーロッパ編 NAVERまとめ

 ~アフリカ編 NAVERまとめ

~北アメリカ編 NAVERまとめ

~南米編 NAVERまとめ

~オセアニア編 NAVERまとめ


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イベント



行った店

2019年

・Leikkimökki レイッキモッキ 食べログ facebook 

 埼玉県入間市



・ワールドブレックファーストオールデイ 食べログ Blogger

カルヤランピーラッカ 1400円




行きたい店



2014年2月16日日曜日

知るべき歴史 日露戦争のおかげで独立したフィンランド



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q128369212

日露戦争で日本がロシアと戦って勝ったので、ロシアの国力は弱まりそれまでロシアに占領されていたフィンランドが独立できたから。

 それから、極東での戦いを有利にするために、明石元次郎大佐が後方攪乱目的【コバート・アクション(反帝政ロシア組織への資金と武器の供与をする秘密の謀略工作)】で当時の金額で100万円(現在の金額に換算して少なくとも70億円以上と推定)を持ってヨーロッパに乗り込み、当時海外に亡命していたレーニンやロシア正教会のガボン神父、ロシア社会主義革命党『戦闘組織』代表イエフノ・アゼフ、フィンランド独立運動家コンニ・シリアクスらに資金援助をしたり、ロシア当局から匿ったりしたわけですが、そのためも多少あるのかもしれません。

 明石大佐は、工作資金でスイスから小銃・弾薬を購入しシリアクスらに渡しています。これらの武器によりロシアの治安担当の大物政治家は暗殺され、有名な血の日曜日事件・コーカサス地方の騒乱・キエフの民衆蜂起・戦艦ポチョムキン号の反乱事件は起こされました。


明石元次郎

Akashi Motojiroh.jpg

ウィキペディアより

  福岡藩士・明石助九郎の次男として元治元年(1864年)に福岡の大名町に生まれる。藩校修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)を経て明治16年(1883年)に陸軍士官学校(旧陸士6期)を卒業し、更に同22年(1889年)に陸軍大学校(5期)を卒業する。
  明治34年(1901年)にフランス公使館付陸軍武官となる。明治35年(1902年)にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任する。首都サンクトペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、友人となった。
  明石の依頼により、ライリーは明治36年(1903年)から建築用木材の貿易商に偽装して戦略的要衝である旅順に移住し材木会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしている。

日露戦争での諜報活動[編集]

明石(当時の階級は大佐)は日露戦争中に、当時の国家予算は2億3,000万円程であった中、山縣有朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。この点について2013年に西部邁(評論家)は次のように述べた。「日露戦争のときには、日本にも明石元二郎という立派なスパイがいました。彼が使った工作資金はいまの標準でいうと数百億円ですってね。一兆円という話も聞いたことがある。それで第一次ロシア革命を煽り立てるわけです。これにはさすがのツアーも参ってしまった。」[1]
主にヨーロッパ全土の反帝政組織にばら撒き日本陸軍最大の謀略戦を行った。後に、明石の手になる『落花流水』を通して巷間伝えられるようになった具体的な工作活動としては、情報の収集やストライキサボタージュ、武力蜂起などであり、明石の工作が進むにつれてロシア国内が不穏となり、厭戦気分が増大したとされていた。
明石の著した『落花流水』や司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』においては、次のような粗筋がベースになっており、明石の工作は成功したものとして描かれ、著名な外国人(日本人から見て)が登場している。
明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。
然し、この件は今井公雄秦郁彦等から疑念が示されている。例えば、稲葉千晴が明石が拠点とした北欧の研究者と共同して行った明石の工作の検証作業では、レーニンと会談した事実や、レーニンが上記のような発言を行った事実は確認されず、現地でも日本のような説は流布していないことが示された上、ロシア側の防諜機関であるオフラナから監視されており、大半の工作は失敗に終わっていたとする[2][3][4]。一方で稲葉は、工作(謀略)活動の成果については否定するものの、日露戦争における欧州での日本の情報活動が組織的になされていたことに注目し、その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことについて評価する[5]
今井はレーニンと会談したという話を、戦後軍内で傍流扱いされた明石の屈折した感情から出た言葉ではないかと推定している。また西原和海も、著書において“レーニンは明石の申し出を断った”と記している[6]
 明石の工作の目的は、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス (Konni Zilliacus) 率いるフィンランド革命党などのロシアの侵略を受けていた国の反乱分子などを糾合し、ロシア国内の革命政党であるエスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどに資金援助するなどして、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであった。

満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。成果やレーニンとの会見の有無は別として、この点については研究者の間でもほぼ見解は一致している。


このように、明石は日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図したものであった。

陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある[7]

日本国内においては、日露戦争での明石の活動ばかりが注目されているが、対戦国であったロシア側の明石に対する反応はロシアでの啓蒙(警戒)を呼び起こすことに繋がっていた。

ロシアの月刊誌『ロージナロシア語版』(Родина、『祖国』の意)は平成16年(2004年)の日露戦争特集号で日本の参謀本部や外務省が満州において中国人やモンゴル人を使って強力な情報網を構築した件を引き合いにし、このことがソ連時代に対日情報工作の強化(一部はゾルゲ事件のように明るみに出る)に繋がったことや、日本自身の防諜体制の甘さを指摘している。日本側もフランス人記者を使ったロシアからの諜報工作に晒されていたのである[8]


※戦争継続できないように世論を作り出す事例。

※戦争参加を促す事例。真珠湾攻撃。マスコミなど。

その他に、どんな事例があるのだろう。→ 参照 情報史研究会 サイト


明石元二郎大佐



コバート・アクション


日露戦争

ウィキペディアより

 日露戦争(1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

観戦武官

 日露双方に多数の観戦武官が派遣され日本にはイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン=ノルウェー連合、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国の13ケ国から70人以上の武官が派遣されていた。日英同盟を結んだイギリスからの派遣が最多の33人となっている。観戦武官が持ち帰った日露戦争の戦訓は、第一次世界大戦の各国で生かされることになる。

イギリス エィルマー・ハルディン
アメリカ アーサー・マッカーサー・ジュニア、副官として息子のダグラス・マッカーサーを連れていた。


フィンランド

ウィキペディア

 1700年から始まった大北方戦争の結果の1721年のニスタット条約で、フィンランドの一部(カレリア)がロシア帝国に割譲された。ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると、1809年にアレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになった。その後スウェーデンは戦勝国となったが、フィンランドはスウェーデンに戻らず、ロシアに留め置かれた。

 19世紀のナショナリズムの高まりはフィンランドにも波及し、『カレワラ』の編纂など独自の歴史研究がなされた。その一方でロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まった。

 1899年には、ニコライ2世がフィンランドの自治権を廃止すると宣言したため暴動が発生。ロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事にいたり、ついに1905年には「自治権廃止」は撤回された。

 1917年にはロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言した。

1918年に共産化し、オットー・クーシネンらを首班としたフィンランド社会主義労働者共和国が成立した。

その後ドイツ軍など外国の介入もあり、フィンランド南部で優勢だった赤軍は白軍のマンネルヘイムにより鎮圧され、1919年にはフィンランド共和国憲法が制定された(フィンランド内戦)。

しかし、独立後の政情は不安定で1921年にスウェーデンと領土問題で争い(オーランド諸島問題)、さらに1939年から1940年のソ連との冬戦争では国土の10分の1(人口と産業密度の高い南東部等)を失った。

第二次世界大戦(継続戦争)ではソ連と対抗するために枢軸国側に付いて戦い、一時は冬戦争前の領土を回復したが、ソ連軍の反攻によって押し戻され、良く持ちこたえたものの、1944年にソ連と休戦。休戦の条件として国内駐留ドイツ軍を駆逐するために戦ったにも関わらず(ラップランド戦争)、敗戦国として終戦を迎えた。

 戦後はソ連の勢力下に置かれ、ソ連の意向によりマーシャル・プランを受けられず、北大西洋条約機構にもECにも加盟しなかった。

自由民主政体を維持し資本主義経済圏に属するかたわら、外交・国防の面では共産圏に近かったが、ワルシャワ条約機構には加盟しなかった(ノルディックバランス)。この微妙な舵取りのもと、現在に至るまで独立と平和を維持した。

ソ連崩壊後には西側陣営に接近し、1994年にはEU加盟に合意。2000年にはユーロを導入した。