第92回 外語祭り
まとめ 会場 専攻語料理店 食べたもの 世界のコクミンSHOW
ブラジル・ポルトガル文化研究ゼミ
今回こちらの展示は撮影禁止となっていた。
なんでだろう?
撮影禁止だったので、じっくり読み、メモを取り、いまこうしてネットで調べなおしている。
また展示場ではクイズがあり、全問正解するとご褒美がもらえた。
このクイズによって参加者は、答えを求めて展示を注視していた。
おそらくこれが答えだろう。
ぼくは当然、全問正解してご褒美のうまか棒をゲットした。
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ブラジル
「マクナイーマ―つかみどころのない英雄」
ジャングルに生まれた英雄マクナイーマの物語・インディオに伝わるおとぎ話の数々を組み合わせて作られた、ブラジル文学の極点。
マリオ・アンドラーヂ
1893年10月9日、サンパウロに生まれる。ブラジル芸術を一新した“近代主義”の立役者のひとり。1945年死去
マリオ・アンドラーヂ
1893年10月9日、サンパウロに生まれる。ブラジル芸術を一新した“近代主義”の立役者のひとり。1945年死去
ポルトガル
ジョゼ・サラマーゴ
「複製された男」
彼がオリジナルで、自分が複製された男なのか!
孤独な現代人の苦悩とアイデンティティの危機をミステリー仕立てで描いた
ポルトガルのノーベル賞作家サラマーゴの傑作。
アメリカで映画化!
世界23カ国で翻訳!
「本書のストーリーは、通信技術がどんなに発達しても、個人間のコミュニケーションの問題は解決しないということを示しているように思われる。ネット社会といわれる現代において、人々の孤独はむしろ深まっているのである。執拗に繰り返されるテルトゥリアーノ・マッシモ・アフォンソという主人公の古めかしい名前は、人々のつながりが失われ、個人の匿名化が進んだ現代社会で、あたかもその存在を強固に主張しているようだ。」(本書「訳者解説」より)
「イエス・キリストによる福音書 ジョゼ・サラマーゴ」で検索して見つけたページ。
Googleで意図的に検索しないのかなぁ・・・。
Yahoo!でも同様の検索結果。
小平図書館「ジョゼ・サラマーゴ」検索するも「白の闇」しか在庫なし。
東京都立図書館 「イエス・キリストによる福音書」 なし。
国立国会図書館にも 「イエス・キリストによる福音書」 なし。
「ブラインドネス(Blindness)」
監督:フェルナンド・メイレレス
2008年/日本・ブラジル・カナダ/121分
原作:ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』
2008年/日本・ブラジル・カナダ/121分
原作:ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』
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ポルトガルで人気の「テマケリア」 参考
ブラジルではしめじや椎茸などのキノコが高級食品。
しめじ20g 700円
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「ブラジル 食人宣言」で検索して、こんなサイトを発見。
ブラジルの現代美術 小林 滋
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その国に数年間居住したことも動機となって、東京国立近代美術館で開催されているブラジル現代美術展「Brazil;Body Nostalgia」 (期間;6月8日~7月25日) に行ってきました。
ブラジルというと、移民が大量に渡っていますから日本でよく知られていると思いきや、実はこれがお寒い限り。地球の裏側の遠い国のためか、せいぜいのところ“リオのカーニバル、アマゾンのピラニア、サッカー王国”といった程度の反応しかみられないのが普通です。しかしながら、言うまでもなく、その地には素晴らしい文化が生まれています。マシャード・デ・アシスとかジョルジ・アマードが書いた小説、『黒いオルフェ』とか『セントラル・ステーション』といった映画、オスカー・ニーマイヤーの建築(ニューヨークの国連ビルや首都ブラジリアの設計)、カルロス・ジョビンのボサノバ(「イパネマの娘」)などなど。
今回の展覧会では、殆ど日本に紹介されたことのないブラジル現代アーチストの中から9人の作家が選ばれ、その作品が展示されています。同国で生活したことがあると冒頭に申し上げましたが、こと美術に関しては(それも現代アートとなると特に)なかなか触れる機会はありませんでした。そこで、大きな期待を懐きつつ、竹橋まで足を運んだ次第です。
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会場で最初に出くわすのが、1920年代を代表する画家タルシラ・ド・アマラウの二つの画。巨大な卵を抱いた蛇が描かれている「ウルトゥ」と、画面をはみ出さんばかりに人物を描いた「黒人女性」です。展覧会カタログの解説によれば、当時夫だった詩人のオズワルド・デ・アンドラーデが、妻のタルシラの絵に触発されて『食人宣言』を発表し、西欧の文化を単に模倣するのではなく、必要な利点のみを選択的に「食べ」て吸収し、それを栄養分として地に足のついた表現を生み出すことを唱えた、とのことです。これを読んでもう一度二つの絵を見てみますと、なんとなく一つに合体し、旺盛な食欲を示す女性(=ブラジル)が、分厚い唇を持った口を大きく開けて、巨大卵(=西欧文化)を飲み込んでいるかのような感じとなります。
今回は出品されておりませんが、タルシラは、他にも「食人」とか「食べる人」といったタイトルを持つ絵を描いています(カタログに掲載)。「食べること」に随分とこだわる画家だったといえるかもしれません。
そういえば、ブラジル人の食べることに対する執着には目を見張るものがあります。その旺盛な食欲が遺憾なく発揮されるのは、何といっても“シュラスカリア”といわれるレストラン。お店では、同国産の牛肉(塩による味付けがなされています)を串刺しにして焼いただけの単純な料理“シュラスコ”が出されます。勿論、ポルコ(豚肉)やフランゴ(鶏肉)もありますが、やはりカルネ(牛肉)が中心です。なかでも、クッピン(牛の瘤)とかマミーニャ(胸の肉)など、安価ですがわが国では余りお目にかかれない部位の肉が、非常に硬いながらも却っておいしく、食べ放題で2500円程度の値段ですから、地酒のピンガ(あるいはカイピリーニャ)を飲みながらドンドン食が進みます。それでも、日本人がどんなに頑張ってみたところで高が知れてて、食べる量はブラジル人の三分の一程にもならないでしょう。かなり後から入った我々が済んでしまっても、彼等はマダ食事の真っ最中といった感じです。
ただ、現地の日系人が開くパーティーでこの“シュラスコ”が出される場合には、様子がヤヤ異なって、手の込んだタレの中に前の日からタップリと漬け込んでおいた肉が焼かれるようになります。それも一番柔らかいフィレミニヨンが専らですから、“シュラスカリア”で出されるものに比べたら、数等美味なことは間違いありません。ですが、スグにお腹に凭れてきて、食べ続けることが出来なくなってしまいます。
同じようなことは、あるいは朝食のパンについても言えるかもしれません。ブラジルで生活している時は、毎朝、近くのパン屋に買いに出かけます。単に塩味がついているだけのせいぜい10円程度の安いものですが、オレンジジュースとコーヒーを飲みながらこのパンを食べますと、ナントも言いようのない味がしました。
他方で、このところ近くの商店街のパン屋で売られているパンは、皆どれもズット軟らかく、様々な味付けがなされるなど、工夫が相当凝らされております。値段も欧米に比べたら高いものの、大層美味ですから売り上げもかなり伸びていることでしょう。最近銀座プランタンなどで販売され出しています欧米産の冷凍パン(欧州で焼き上げ寸前の素焼状態で急速冷凍したもの)も、あの単純そのものの硬いパンだけではなく、中にガーリックなどを添加した柔らかい製品も併せて並べられています。
同じ肉、同じパンとはいいながら、日本のものは外国とどうもかなり違っているようなのです。話が飛躍して恐縮ですが、これはあるいは、外来のものに対する日本人の対処法、その受容の仕方なのかもしれません。肉を使った料理が本格化したのは明治以降ですし、パンも戦後になって日常生活に入ってきました。そうして流入してきたものを、日本人は様々な工夫を加えて、肉の方は魚のように柔らかく、パンも粉っぽさの少ない種々の味の付いたものに変えてきたのでしょう。
話をモット拡大すれば、食べ物だけでなく、例えば欧米で発明された自動車も、日本人がそれに様々な価値を付加し、逆に大量に外国に輸出されているところです。今や売れ行き絶好調のDVDレコーダーといったAV機器に関しても、様々の便利な機能が付いていますから、あるいは同じように言えるのではないでしょうか?
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ブラジル現代美術展の話に戻りますと、タルシラばかりでなく、他のアーティストの作品にもなかなか興味深いものがあります。特に、ディアスとリートヴェークによる「デヴォーショナリア(祈り)」に衝撃を受けました。リオ・デ・ジャネイロのファヴェーラ(貧民街)にたむろする約600人の子どもたちの手と足を石膏でかたどり、そこにワックスを流し込んで制作したものが、所狭しと会場の一室に並べられています。社会的弱者に対する関心をアートによって高めようとしたものと言えるかもしれません(カタログによれば、数年の間にその半数の子どもたちが亡くなっていたとのこと)。
わずかの事例から一般化することは非常に危険なことを承知の上で申し上げますと、ブラジルでは様々な形で西欧美術に対応してきていますが、傾向的には、それらを自分のものとした上でかなりストレートな形で打ち返していると思いました。
他方、わが国の方はどうだったのでしょうか?幸い、美術館では、今回のブラジル美術展と並行して、館蔵品による「近代日本の美術」展も開催されており、そのⅣ部とⅤ部では1950年代以降の現代美術が取り上げられています。全く素人の単純な感想ですが、どちらかと言えば洋画におけるよりも日本画においての方が、西欧的な題材を前にして様々の工夫が凝らされているように見うけられます。特に、美術館の4階では、日本画の加山又造の所蔵作品が14点も展示されていて、その感を深くしました。加山又造の場合、西欧に対してまともに打ち返すというよりも、上手に二つを融合させるという観点が勝っているのではないか、ブリューゲルの世界も裸婦も見事に装飾的な日本画の中に取り込まれているのではないか、と思いました。
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こうしてみますと、外来文化を受容する場合に、ゴク雑駁な印象に過ぎませんが、日本とブラジルとでは、かなり対応振りが異なっているようです。チョット考えて見ますと、ブラジルは、元来が西欧移民の国です(今回の展覧会も、ポルトガル人のブラジル到来500年を記念してのものです)。日系人が多いといってもせいぜい130万人程度にすぎず、総人口1億6千万人の半分以上が西欧系(ポルトガルのほかに、ドイツ、イタリア、スペインなど)なのです。とすれば、同じ西欧文化の受容といっても、ブラジルと日本とでは、その様相が異なるのは当然かもしれません。日本は、ポルトガル人(!)の種子島漂着以前は、ほとんど西欧との接触はなく、独自に文化を創り上げていたのですから。
今回の美術展では、映像による作品が多く展示されています。先に挙げたディアスとリートヴェークの作品の場合でも、展示物の置かれている部屋の壁に大きなスクリーンが設けられていて、貧民街で起きた何件もの殺人事件に関する映像が延々と尽きることなく映し出されています。そこでというわけではありませんが、リオのスラム社会を舞台にしているブラジル映画「シダージ・デ・デウス(神の街)」のDVD版も日本で発売されているようですから、ここらで街に探しに出てみることといたしましょう。
(04.7.4に掲上)
ブラジル現代美術展「Brazil;Body Nostalgia」
東京国立近代美術館
2004年 6月 8日(火) - 7月25日(日)
タルシラ・ド・アマラル
Tarsila do Amaral (1886‐1973)
サンパウロ州に生まれる。1922 年にパリに渡り、フェルナン・レジェ、アルベール・グレーズのもとでキュビスムを習得。ブラジル帰国後は、キュビスムの造型感覚と土着的な要素を総合することで、ブラジルの文化的アイデンティティーの創出を目指す。28 年に描かれた、南国の自然を背景に、小さな頭と巨大な足をもつ象徴的な身体像は、インディオの言葉で「人喰い」というタイトルを与えられ、彼女の夫で詩人のオズワルド・ヂ・アンドラーヂが推進した〈食人運動〉のイコンとなった。ブラジルの文化的植民地状態を、熱帯の原始的な活力によって転覆することを狙う「食人」のメタファーは、のちの世代にもインスピレーションを与え続け、20 世紀ブラジル文化のキーワードとなった。
ウィキペディア 「ブラジルの歴史」より ※面白い!
文化面では、文学においては1897年にブラジル文学アカデミーが設立され、初代会長にはマシャード・デ・アシスが就任した。旧共和政初期には『奥地』(1902)のエウクリデス・ダ・クーニャや、リマ・バレット、モンテイロ・バレットなどが活躍した。
さらに、19世紀末からナショナリズムの称揚が進み、歴史家カピストラーノ・デ・アブレウによる『ブラジルの古い道と植民』(1899年)の発表をきっかけに、ブラジルの国民性の根源を内陸部の混血住民に求める言説が生まれた。第一次世界大戦によってそれまでのブラジルのエリートが発展の模範にしてきた西ヨーロッパが没落するとこの潮流は一層強くなり、1922年2月にサンパウロで「近代芸術週間」が開催されるとブラジル独自の文化運動は盛り上がりを見せ、音楽では「ブラジルのブラジル化」を掲げた作曲家のエイトル・ヴィラ=ロボスが活躍した。
文学では『ジョアン・ミラマールの叙情的回想』(1924)、『食人宣言』(1928)を著し、「食人運動」を提唱したオズヴァルド・デ・アンドラーデや、『マクナイーマ』(1928)で知られ、近代芸術週間そのものを後押ししたマリオ・デ・アンドラーデ、グラサ・アラーニャが、美術ではアニータ・マルファッチやディ・カヴァルファンチなどが活躍し、ブラジルのヨーロッパからの文化的独立が進んだ。
ラジオや蓄音機(レコード)といった電化製品の普及によりポピュラー音楽もより身近なものになり、1917年にはサンバ・カンサォンの最初の曲「電話で」が作曲され、サンバの中産階級化や大衆化が進んだ。教育面では帝政期からの伝統だった高等教育の拡充がさらに進み、1912年にブラジル初の大学であるパラナ連邦大学がクリチバに設立された。
しかし、大衆教育は依然顧みられず、1890年に67.2%だった非識字率は[41]、1929年にも60.1%に留まった[41]。
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