2013年11月8日金曜日

アフリカのチェ・ゲバラ ブリキナファソのトマ・サンカラ

2013年11月8日

アフリカのチェ・ゲバラ
 ブリキナファソのトマ・サンカラ

ブルキナファソの旗


参考

NPO法人 日本ブルキナファソ友好協会 サイト



トマ・サンカラ 清廉の士 その1


トマ・サンカラ 清廉の士 その2


トマ・サンカラ 清廉の士 その3




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ウィキペディア

 トマ・サンカラ(Thomas Sankara、1949年12月21日 – 1987年10月15日)、或いはトーマス・サンカラは、オートボルタ(現ブルキナファソ)の第5代大統領(在任:1983年8月4日 – 1987年10月15日)。37歳で暗殺された劇的な生涯とその革命的な理念から、アフリカのチェ・ゲバラとも呼ばれた[1]。サンカラの大統領在任中には、貧困と腐敗の一掃、教育と社会保障制度の改善、砂漠の緑化事業などを主な政策として、発展途上国から脱却する事を意図した計画経済的かつ社会主義的なプロジェクトを実践し、国民から多くの支持を得る事に成功した。政府の中枢に多くの女性を起用し、
また、ブルキナファソの国歌「ある一夜」の作詞、ギタリストとしての才能、スポーツマンとしての姿、オートバイに対する深い造詣がある事でも知られている。



ブルキナファソの国歌「ある一夜」 サイト

フランス語詞

Contre la férule humiliante il y a déjà mille ans,
La rapacité venue de loin les asservir il y a cent ans.
Contre la cynique malice métamorphosée
En néocolonialisme et ses petits servants locaux
Beaucoup flanchèrent et certains résistèrent.
Mais les échecs, les succès, la sueur, le sang
Ont fortifié notre peuple courageux et fertilisé sa lutte héroïque.
CHORUS:
Et une seule nuit a rassemblée en elle
L'histoire de tout un peuple.
Et une seule nuit a déclenché sa marche triomphale
Vers l'horizon du bonheur.
Une seule nuit a réconcilié notre peuple
Avec tous les peuples du monde,
A la conquête de la liberté et du progrès
La Patrie ou la mort, nous vaincrons !
Nourris à la source vive de la Révolution.
Les engagés volontaires de la liberté et de la paix
Dans l'énergie nocturne et salutaire du 4 août
N'avaient pas que les armes à la main, mais aussi et surtout
La flamme au coeur pour légitimement libérer
Le Faso à jamais des fers de tous ceux qui
Çà et, là en poluaient l'âme sacrée de l'indépendance, de la souveraineté.
CHORUS
Et séant désormais en sa dignité recouvrée
L'amour et l'honneur en partage avec l'humanité,
Le peuple du Burkina chante un hymne à la victoire,
A la gloire du travail libérateur, émancipateur.
A bas l'exploitation de l'homme par l'homme!
Hé en avant pour le bonheur de tout homme,
Par tous les hommes aujourd'hui et demain, par tous les hommes ici et pour toujours!
CHORUS
Révolution populaire notre sève nourricière.
Maternité immortelle du progrès à visage d'homme.
Foyer éternel de démocratie consensuelle,
Où enfin l'identité nationale a droit de cité,
Où pour toujours l'injustice perd ses quartiers,
Et où, des mains des bâtisseurs d'un monde radieux
Mûrissent partout les moissons de væux patriotiques, brillent les soleils infinis de joie.
CHORUS


英訳詞

Against the humiliating bondage of a thousand years
Rapacity came from afar to subjugate them for a hundred years.
Against the cynical malice in the shape
Of neo-colonialism and its petty local servants.
Many gave in and certain others resisted.
But the frustrations, the successes, the sweat, the blood
Have fortified our courageous people and fertilized its heroic struggle.
CHORUS:
And one single night has drawn together
The history of an entire people,
And one single night has launched its triumphal march.
Towards the horizon of good fortune.
One single night has brought together our people
With all the peoples of the World,
In the acquisition of liberty and progress.
Motherland or death, we shall conquer.
Nourished in the lively source of the Revolution,
The volunteers for liberty and peace
With their nocturnal and beneficial energies of the 4th of August
Had not only hand arms, but also and above all
The flame in their hearts lawfully to free
Faso forever from the fetters of those who
Here and there were polluting the sacred soul of independence and sovereignty.
CHORUS
And seated henceforth in rediscovered dignity,
Love and honour partnered with humanity,
The people of Burkina sing a victory hymn
To the glory of the work of liberation and emancipation.
Down with exploitation of man by man!
Forward for the good of every man
By all men of today and tomorrow, by every man here and always!
CHORUS
Popular revolution our nourishing sap.
Undying motherhood of progress in the face of man.
Eternal hearth of agreed democracy,
Where at last national identity has the right of freedom.
Where injustice has lost its place forever,
And where from the hands of builders of a glorious world
Everywhere the harvests of patriotic vows ripen and suns of boundless joy shine.
CHORUS


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2013/08/21

【特別寄稿】山本太郎氏の「市民に寄り添う政治家」とは?
 ~ブルキナファソ・故サンカラ大統領の思想と改革から学ぶ~
(米川正子 元UNHCR職員・立教大学特任准教授)

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/98443






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【サンカラ氏について日本語で書かれた数少ない論文】

・「アフリカの革命政権再考 : トマ・サンカラが遺したもの」(宮崎大学、岩田邦夫)

http://ir.lib.miyazaki-u.ac.jp/dspace/handle/10458/1657


1 はじめに

 アフリカ1) 諸国がヨーロッパ列強の植民地から次々と独立を果たしてから半世紀近く経よう
とする現在、公式にマルクス=レーニン主義を掲げて革命や国づくりを行う国は見られなくな
った。1990 年代以降、一党制から複数政党制への移行を通した民主化の荒波に飲み込まれた
アフリカ諸国にあっては、一見すると革命政権の時代は政治史の一コマにしまい込まれたよう
にも思われる。

 「失われた 10 年」とも呼ばれた 1980 年代には、アフリカ諸国の経済発展の遅れ、政治的混
乱に対して、西側援助国を中心とする国際社会は、アフリカ各国の政府、政治体制に関して公
然と不信感を表明するようになった。冷戦終結により、西側諸国にとって共産主義の勢力拡大
を防ぐために無条件にアフリカを支援する理由がなくなった。そこで、国際社会はアフリカ諸
国に対して政治改革として民主化を強く求めるようになった。

 アフリカの地位の周辺化と低下が進む中で、それまで高らかに唱えられてきたアフリカ社会
主義などのアフリカ独自の政治体制に関する主張は、国際的に受け入れられる余地がなくなっ
た。このような時代の変化の中で、国民経済の破綻と政治的停滞・混乱の責任を背負わされな
がら、アフリカの革命政権は次々と姿を消していった。しかし、政治の民主化、経済の新自由
主義化、グローバル化に飲み込まれた現代アフリカ諸国において、果たして革命政権は単なる
過去の政治的失敗の一局面として忘れ去られ、21 世紀の現代政治における意味を完全に失っ
てしまったのであろうか。独立後のアフリカ諸国が経験した「革命」が、過去の出来事として
現在から隔絶され、現代アフリカ政治に何の痕跡や影響も及ぼしていないとは考えられない。
そこで、アフリカの革命政権を再検討することは、民主化開始以降の現代アフリカ政治を理解
する上で重要な意味があるように思われる。

 小稿では、このような問題意識に基づいて、現代アフリカ政治へのつながりを念頭に入れな
がら、アフリカの革命政権について再考することを目的とする。革命が現在のアフリカ人の記
憶にどのように残り、政治行動に影響を与えているのかを考えてみたい。事例研究対象として、1983 年から 4 年間にわたりブルキナファソ2)を率いたトマ・サンカラ(Thomas Isidore
Noël Sankara)の革命政権の再検討を通じて、革命の持つ現代アフリカ政治における意味を
考察する。

 それでは、なぜ今サンカラ革命政権の再検討が必要なのだろうか。

サンカラの暗殺(1987年 10 月 15 日)から 20 年を経た現在においても、その名声はブルキナファソ国内にとどまらず、国外、さらにアフリカの外の世界にも広がり、多くの人々に語り継がれている。

21 世紀に入っても、サンカラに関する出版物、ドキュメンタリー映画などの作品が続々と世に出されている。そして、サンカラ主義を掲げる政治活動が続いているように、サンカラは没後も長期
間にわたり具体的な形でアフリカ内外の人々に政治的影響を与え続けている数少ないアフリカ
人政治指導者である。

サンカラは、腐敗と独裁的政権に満ち溢れていた 1980 年代初頭のアフリカに颯爽と登場し、「高潔な人の土地」(ブルキナファソの国名の意味)の指導者として倹約を率先し、腐敗撲滅、女性の地位向上、闘争的開発を掲げ、大衆の圧倒的な支持を背景に革命を実現しようとした。現場に赴き労働者を直接鼓舞する、若く活力溢れる国家指導者として人々を惹きつけた。


 また、サンカラは、若く志半ばにして悲劇的な最期を遂げたことによって(暗殺当時 37 歳
10 ヶ月)、アフリカのチェ(Ernesto Che Guevara)とも呼ばれ、アフリカ革命の殉教者とし
て神話化された。その反面、現在のブルキナファソ政治につながるサンカラ革命政権の統治、
政策、イデオロギーに関する検証が十分に行われないまま現在に至っている。


 このような作業は、本来であれば既にブルキナファソ人の政治学者によって行われてきたは
ずである。しかし、サンカラ暗殺を伴うクーデタによって発足し、その後も数々の暗殺事件を
含む重大な人権問題3) に関して国内外から非難を浴び続けているように、決して民主化4) が進
んでいるとは言えない現政権下においては、サンカラ及びサンカラ革命政権時代の政策につい
て真正面から論ずることは容易ではない状況が続いている。形式的な名誉回復とは裏腹に、公
の場でサンカラを語ることはタブーであり続けている5)。一方、ブルキナファソ国内ではサン
カラについて語ることを拒否する政権寄りの勢力が支配的である中で、サンカラ神話を政治的
に利用しようとする野党勢力も存在する (Jaffré 1997:10)。


 小稿では、暗殺から 20 年を経たサンカラ革命の理念・政策を問いなおすことを通じて、革命政権と現代アフリカ政治との接点を考えていきたい。

以下では、サンカラ革命の特徴を整理し、革命政権の発足までの経緯、政策を検討し、さらに現代のブルキナファソ政治に与えた影響に関して考察していきたい。


2 サンカラ革命政権の特徴

 ここでは、サンカラ革命政権の特徴について整理しておきたい。
 はじめに、革命という概念の意味について明らかにしておく。革命が単なるクーデタや政変
と異なるのは、超法規的な手段を用いたある勢力によって政権奪取が行われるだけでなく、そ
れに伴い社会システム自体を根本的に変えることを明確に掲げて新しい別の統治体制が敷かれ
る点にある。


 革命政権のはじまりと傾向を考える上で、アレントの議論は逆説的であるが興味深い。

アレントによれば、職業的革命家の役割は革命を行うことにあるのではなく、革命が起った後に権
力につくことである(アレント:414)。


また、革命政権の傾向については、フランス革命後の恐怖政治を例にとり、革命の目的は討論や意見交換ではなくなり、互いにスパイし合い密告することであった(アレント:396)。


 ブルキナファソにおいてサンカラ革命政権が掲げた革命のスローガンに、

「社会民主主義」、


「革命的民主主義」、

「新植民地主義に抵抗する民族主義」

(Somé:194、Englebert:100、113)などがあった。

打倒すべき対象として、帝国主義、新植民地主義が掲げられた(Englebert:
106、Loada:278)。しかし、ブルキナ的革命・マルクス主義を強調しながらも、独自の革命
理論を持つまでには至らなかった(Englebert:98)。

サンカラ自身は、聖書、マルクス、レーニン、毛沢東の書物に親しみながらも、ンクルマ(Kwame Nkrumah)7)やカブラル(AmilcarCabral)8) といったアフリカ人指導者の思想から直接的に影響を受けた。

それは、革命における文化の役割を重視した点に表れている(Martens:6)。

 サンカラ革命政権においては、「人民」対「人民の敵」の対立を基本軸とした政治的構図が
構築された(Otayek 1996:10)。

サンカラ政権における国家スローガン

「祖国か死か、我々は勝利する」(La Patrie ou la mort, nous vaincrons)

はキューバから導入された(Sawadogo:22)。



 上図において、人民カテゴリーとして分類された社会集団は、労働者や若い農民であった。
逆に人民の敵として分類されたのが、官僚や政治家と結びついたブルジョワ、工業・商業ブ
ルジョワ、伝統的首長であった。上図以外では、イスラーム神秘主義指導者であるマラブー
(Marabout)も人民の敵とされた。人民の敵と分類された旧来の政治エリートに対して、サン
カラ政権は徹底的に特権の剥奪を試みた。


 アフリカの革命を考える上で、新植民地主義との対決という姿勢は欠かすことができない。
サンカラは、ガーナ独立の父であり、アフリカ統一の提唱者であったンクルマから新植民地主
義について学んだ。ンクルマによれば、新植民地主義とは一方の手でアフリカ人民に独立を与
え、他方の手でそれを帳消しにするやり方である。経済的な従属、搾取の状態から脱するため
には、何よりもまず政治的独立が求められた。

 次にサンカラがンクルマから学んだのは、思想教育の重要性であった。ンクルマのように思
想教育の専門機関(クワメ・ンクルマ思想学院)まで設けることはなかったものの、革命政権
における憲法の役割を果たした政治的指針である、1983 年 10 月に発表された「施政方針演説」
(Discours d’orientation politique:DOP)の精神を浸透させるため、革命政権の政策実施機
関である「革命防衛委員会」(Comité de défense révolutionnaire:CDR)を通じて、軍、学校、
官庁、企業など社会の隅々にまで思想的教育を徹底しようとした。中でもサンカラは軍人の思
想教育を重視した。サンカラは、政治的意識の低い軍ほど危険なものはないと強調した。サン
カラはンクルマから多くを学んだものの、ンクルマのように自身を個人崇拝の対象にすること
は避け、自らの肖像を公的機関に掲げることも禁止した。


 政治的近代化に関しては、ンクルマと同様に国家権力からの伝統的首長の排除を試みた。しかし、ンクルマのように一旦権力から遠ざけた首長を再び利用することはなかった。ンクルマ
は、後にアサンテ王からオサギェフォ(Osagyefo:救済者)という称号を与えられ、公に用
いるようになったが、サンカラはそのような称号を授けられること自体を拒否し続けた。


 以上が、サンカラ革命政権の特徴である。


次に、サンカラ政権誕生までの歩みをたどっていく。


3 革命政権誕生までの経緯

 植民地時代のオート・ヴォルタは仏領西アフリカの一行政区であったが、その位置付けは流
動的であった。オート・ヴォルタは、ニジェール、スーダン(現在のマリ)、コートジボワー
ル行政区の管轄下に置かれ、行政単位として姿を消した時期(1932 ~ 47 年)もあった。植
民地時代に行政単位が二転三転したことは、独立後のマリとの国境紛争の一因となった。
 第二次世界大戦後、オートヴォルタではアフリカ民主連合(Rassemblement démocratique
africain:RDA)が、モシの首長を抑えて主導権を握った。RDA を率いたのは、親仏派のヤ
メオゴ(Maurice Yaméogo)であった。ヤメオゴは、宗主国フランスと決別する形で独立し
たトゥーレ(Sékou Touré)率いるギニアとは対照的に、1957 年にはドゴール(Charles de
Gaulle)が提唱したフランス共同体(Communauté Française)に参加した(Englebert:
23-31)。

 1960 年 8 月のオート・ヴォルタ独立後、ヤメオゴは大統領に就任した。しかし、ヤメオゴ
政権の乱脈政治に対する国民の不満が高まっていた(Englebert:36)。1966 年はじめの労働
組合代表の逮捕をきっかけに体制への不満が噴出し、国民からの要求に応えるという形でラミ
ザナ(Sangoulé Lamizana)将軍がクーデタを起こし、ヤメオゴを退陣に追い込んだ9)。

 その後、民政移管されたものの政治的不安定は続き、1974 年にラミザナ将軍は自身二度目
のクーデタにより政権を奪取した(Englebert:51)。再度民政移管するために、1977 年には
憲法制定のための国民投票、次いで大統領選挙が実施されたが、1980 年 11 月にはゼルボ(SayèZerbo)による独立後三度目のクーデタによる政権交代が起きた(Englebert:56-65)。

一方、
文民政権(1960-66、1970-74、1978-80 年)への国民からの信頼は低かった(Englebert:
89)。その後も政治的に不安定な状況が続き、1982 年 11 月には軍医将校であるウエドラオ
ゴ(Jean-Baptiste Ouédraogo)によるクーデタによって四度目の政権交代が起こった。腐敗
した文民政権と軍事クーデタが繰り返される中で政治の表舞台に登場したのがサンカラであっ
た。

 サンカラは、1949 年 12 月 21 日に首都ワガドゥグから北に 100km あまりにある地方都
市ヤコ(Yako)近くの村で、プル(フラニー)人の父、モシ人の母との間に生まれた (Jaffré
1997:15)。幼少時代のサンカラは、長男として幼い兄弟の面倒をみて熱心に教会に通う少年
であった (Jaffré 1997:27-29)。

 少年時代の体験が、革命指導者となるサンカラに与えた影響は小さくないと言われる。幼き
日に父から聞いた植民地時代の重い人頭税の記憶が、大統領就任後の農民への所得税廃止10)
に影響を与えた。母から聞いたモシの首長(王)の暴政の記憶が、革命政権樹立後の政治権力
からの首長の排除の背景にあるとも言われる。幼少時には、貧しさ故に白人の子供に嘲笑され
たこと、通学していた小学校でのアフリカ人校長の白人行政官への抵抗事件を目にしたことがのちのフランスへの対抗的姿勢に反映された。

また、少年時代に憧れた映画の主人公であった軍人の階位が大尉(Capitaine)だったことから、大統領就任後もこの肩書を好んで用いた(Jaffré 1997:20-26、40)。


 少年サンカラは経済的理由で医学の道をあきらめ、ラミザナ将軍が創設した士官学校
(Prytanée militaire du Kadiogo)へ入学した。士官学校に入ったサンカラは、そこで初め
てマルクス主義と出会った。独立アフリカ党(Parti africain de l’indépendance:PAI)支
持者からマルクス主義を知り、新植民地主義、革命、社会主義に関する思想に触れた (Jaffré
1997:48-51)。
 サンカラは奨学金を得て、1970 年から 72 年までマダガスカルの軍事学校(Académie
militaire d’Antsirabe)で学んだ。サンカラは、マダガスカルの発展に驚かされた。また、同
地でガボン大統領ボンゴ(El Hadj Omar Bongo)の義弟(Guy Aissa Dabany)と交友を深
めた。それが後に、サンカラ暗殺後、妻子の身柄を一時ボンゴ大統領が引き受けた遠因となっ
た (Jaffré 1997:57-59)。マダガスカルでの経験は、政治・民族問題を自国の事情と重ね合わ
せて考察する機会となった。中でも、マダガスカルの鉄道の発展は、サンカラ政権発足後の最
重要政策の一つとされた鉄道敷設闘争に影響を与えた (Jaffré 1997:82)。

 マダガスカルから希望を胸に帰国したサンカラを待ち受けていたのは、理想とは程遠いオー
ト・ヴォルタの現実であった。サンカラは、政治家の間で繰り返される腐敗に怒りを覚えた。
時期を同じくして発生したのが、国境問題を起因とするマリとの軍事衝突であった。

 フランス植民地時代に植民地内の行政区の境界として画定され、その後も変更が繰り返され、
独立時に曖昧さを残したまま継承された国境線は、独立後の両国の火種となった。1974 年、
北部地域(La Mare de Soum)の領有をめぐってマリとの軍事衝突が発生した。出兵に際して、
マリに多く住むプル人の血も引くサンカラはこの紛争に大きな矛盾を感じた。サンカラは最前
線で部隊を指揮しただけでなく、マリ側に渡って状況を視察し、名声を上げた (Jaffré 1997:
92)。

この戦闘で、サンカラは部隊に「前に進め」(En avant)と号令をかけず、「我に続け」
(Suivez-moi)と自ら戦闘に突入した勇気が称えられている11)。

 出兵中、その後のブルキナ政治の方向性を大きく規定するコンパオレ(Blaise Compaoré)
との出会いがあった。二人は意気投合し、共闘を誓い合うようになった。戦闘終了後、フラ
ンスのポー(Pau)やモロッコのラバト(Rabat)でパラシュート部隊の訓練を受けた。二人
は軍や組合内部での政治活動を活発化させ、上級将校に対する非難のビラを撒いた(Jaffré
1997:94-95、Martens:71)。そして、国内で巻き起こる度重なるデモに際して、軍の積極
的な政治的役割を意識するようになった (Jaffré 1997:99)。


 ガーナとの国境付近に位置する南部ポ(Pô)にあるパラシュート部隊の軍事訓練施設長への
任命以降、サンカラの名声はさらに高まった (Jaffré 1997:102、122-123)。では、コンパ
オレと共にマルクス主義に基づく軍の組織化に着手した (Jaffré 1997:108)。加えて、1983
年のクーデタによる政権奪取後、コンパオレも含めて「歴史的指導者」(Chefs historiques)
として革命政権を指導することになるゾンゴ(Henri Zongo)、リンガニ(Jean-Baptiste
Lingani)との親交を深めた (Jaffré 1997:113)。


 サンカラの自由な政治的発言は時の権力者にとっては危険な存在と映ったものの12)、一方で
国民の中で存在感を増していくサンカラを政権に取り込もうと画策された。1980 年のクーデ
タで発足したゼルボ政権において、情報担当国務委員に任命されたものの、1982 年 5 月には「考えの不一致」(Divergeances d’options)を理由に辞任した13)。同年 11 月のクーデタで政権
を奪取した「暫定人民救済委員会」(Conseil provisoire de salut du peuple:CPS)は、サン
カラの人気を利用しようと首相に任命した(Englebert:71)。

 アフリカの盟主を目指すリビアのカダフィ大佐(Muammar Al Qadthafi)は、若いサンカ
ラ首相に接近した。革命指導者の先達であるカダフィとの関係が表面化したのは、カダフィの
オート・ヴォルタ電撃訪問によってであった。カダフィがベナン訪問からリビアへの帰途、突
然オート・ヴォルタを訪問したことによって、フランスとの関係を重視するウエドラオゴ政権
はパニックに陥った。また、サンカラはリビア以外にも、アルジェリア、ガーナ、ベナン、キ
ューバなど社会主義政権との関係を深め、インドでの非同盟会議に向かう途中で北朝鮮を訪問した (Jaffré 1997:140-142)。

 オート・ヴォルタの歴代の政権は旧宗主国フランス寄りであったことから、フランスの目に
は、左傾化し、チャド紛争でフランスと敵対するリビアと関係を深めるサンカラは危険で目障
りな存在に映った(Martens:78、Englebert:76)。1983 年 5 月、サンカラは軍によって拘
束された。リンガニとゾンゴも拘束された。同じ時期に、フランス大統領府のアフリカ担当官
ペーヌ(Guy Penne)が首都ワガドゥグに滞在していたことから、この事件の黒幕がフランス
であるとの憶測が流れた (Jaffré 1989:168、Englebert:75)。唯一、コンパオレは難を免れ、
権力基盤のあるポのパラシュート部隊基地に帰還し、二ヵ月半にわたり中央権力に抵抗を続け
た。サンカラは一旦釈放されたものの、軟禁状態に置かれた。


 8 月 4 日、コンパオレはポから部隊を率いワガドゥグに進軍し、ウエドラオゴ大統領に辞任
を迫った。ウエドラオゴ大統領が辞任を申し入れ、サンカラはそれを受諾した14)。独立後、
度目のクーデタによる政権交代となった。この時、サンカラはウエゴラオゴ大統領の辞任の受
諾について、クーデタの直接の指揮者であるコンパオレに連絡しようとしたがコンパオレには
伝わらなかったと言われる。ここに、二人の盟友の間のボタンのかけ違いが始まった。コンパ
オレは、交渉ではなく武力による完全決着を強く望んでいたからであった。さらに、自らが大
統領として就任宣言する用意までしていた (Jaffré 1997:168)。コンパオレにとっては、交渉
による政権交代とサンカラが国家元首となることに不満を抱えながらの新政権の船出となった
(Jaffré 1997:166-168)。


 権力の座についた時、サンカラは若干 33 歳で明らかに政治指導者としての経験が不足していた。

歴史的指導者の中で最年長のリンガニでさえ当時 40 歳であった(Loada:283-284)。

新政権の大部分は軍人によって固められた。サンカラの人気を高めたのは、マリとの戦闘での
活躍、清廉なイメージに加え、ギター片手に楽団を結成するなどの気さくさ、朝のジョギン
グを欠かさないスポーツマンのイメージであった15)。首相時代には閣議にも自転車で出席した
(Sawadogo:157)。革命政権の発足後、大統領専用車をはじめとする公用車をルノー・サン
クという大衆向け小型車にしたこと、閣僚の外遊先の宿泊先を中級ホテルに格下げしたこと、
リビアからサンカラの姉のために用意された障害者用自転車の提供を辞退したことは、サンカ
ラの清廉さを印象付けた (Jaffré 1997:189、192)。

4 サンカラ革命政権の考察

4.1 サンカラ革命政権の基本的理念

 サンカラ革命が最終的に目指したことは、個々人の根底からの変革を通して社会を変えていくことであった(Labazée1989:26)。

革命政権における憲法代わりとなった政治理念とされたのが、クーデタから 2 ヶ月後の 1983 年 10 月 2 日に発表された「施政方針演説」(DOP)であった。

DOP は、サンカラの側近で政権のイデオローグであるソメ(Valère Somè)が起草し、
政治的意思の最高決定機関である「革命国民評議会」(Conseil national de la révolution:
CNR)での評議を経ず、サンカラ個人による決裁の後、ラジオ演説の形で国民に向けて発表さ
れた(Martens:87)。

 DOP は、独立後の 23 年間の新植民地主義に迎合してきた歴代の諸政権と決別するために革
命を目指すサンカラ政権の基本理念を示したものであった。しかし、DOP は多岐にわたる宣
言であったが、内容自体に特別な斬新さはなかった。DOP は、ブルキナ革命を民主的で大衆
的な性格と位置づけ、敵(帝国主義者、反動主義者、人民に紛れた日和見主義者)に抵抗する
ための骨子とされた16)。

 DOP の精神を普及・定着させるために、思想教育セミナーが頻繁に開催された。反動的ブ
ルジョワを粉砕するための軍人、公務員、国営企業幹部に対するイデオロギー研修が実施され
た。そこでは、DOP の精神を遵守して人民に奉仕するための闘争的職務遂行が求められた17)。
 また DOP では、革命政権の基本方針の他に、女性の解放、軍の開発に対する積極的役割、
分権化の必要性などが明示された。革命体制における人民の権力は、地方委員会、評議員によ
って「分権的」に構築されようとした18)。ここに現在西アフリカ仏語圏諸国の中で先進モデル
とされるブルキナファソの地方分権化が企図された。また、軍の改革に関してサンカラが掲げ
たスローガンは、「社会問題に取り組む軍人」(Le militaire est un homme engagé)であった
19)。

 DOP の精神を国中に浸透させるのに動員されたのが、サンカラ革命政権の統治装置である
革命防衛委員会(CDR)であった。CDR の役割は、動員の意識化、政治的教育とされた20)。
CDR の目的は、政治的エリートである伝統的首長などの既得権益層を切り崩すことでもあっ
た(Labazée1985:12)。CDR は、地区、村、公共サービス、企業、大学など、社会の隅々
まで支配下に収め、さながら一党制国家における国家政党の役割を果たした21)。

4.2 サンカラ政権の政治的構造

 サンカラは、自らの革命政権を政治的意思決定機関である国家革命評議会(CNR)と実質的
な国家政党である革命防衛委員会(CDR)を中心に再構成しようとした。革命により政権の中
心が一気に若返ると共に、社会的主従関係(Ainé-Cadet sociaux)の逆転を目指した(Loada:
285)。

 CDR の役割は、

①イデオロギー形成と革命の敵の抑制のための政治的役割、

②社会・経済的基盤整備、

③祖国防衛の意識化、

④文化・スポーツ政策の実施

と規定された(Augustin :63)。

CDR の活動を通して、カブラルが唱えた階級としてのプチブルの自殺が起こることを期
待した(Labazée 1989:18)。

 しかし、サンカラ政権における政治機構は構成も性格も曖昧な状態が続いた。実際の政治
的決定は、CNR の集団合議制の制度の外でサンカラ個人と側近によって非公式に行なわれた。
体制の制度化は遅れ、CNR の組織定款、内規が定まったのは政権発足から二年も経た後であ
った。後に中央委員会(Comité centrale)と政治局(Bureau politique)を創設した。中央
委員会設置によって、CNR 総会は開催されなくなった。政治局の会合は、大きな問題が発生
した場合に臨時に召集された。しかし、中央委員会も政治局も、1987 年 8 月を最後に開催さ
れることがなくなった 22)。

 サンカラは、自ら以外への権力集中を恐れた(Martens:163)。

民主的大衆的革命を掲げながらも、サンカラは多元的民主主義を目指さなかった。

政権関係者は、仮にサンカラが生きていれば、フランスがアフリカに対する姿勢を転換し、アフリカ諸国に対して援助と引き換えに民主化を求めたラボール宣言(1990 年)を拒否しただろうと述べている(Sawadogo:90)。


政権に対抗的であった教員組合に対して批判を強め、最終的には自己批判に追い込んだ23)。
 政権発足から時間の経過と共に、サンカラの個人支配的性格が強まっていった。サンカラ
は、政治機関への不信を募らせ、権力の個人化と軍への依存を強めた。やがて、CDR が機能
不全になる中で、1987 年 8 月に「革命軍事機関」(Organisation militaire révolutionnaire:
OMR)が設置された 24)。

 このように政権の制度化に失敗したサンカラであったが、それでも国民からの大きな支持は
維持していた。政権を支えたのは、個人的パフォーマンスに基づくサンカラ個人のカリスマ性
であった(Englebert:171-172)。サンカラは、単純なフレーズで分かりやすく情熱的に語り
かけることを心がけた(Sawadogo:125)。演説に次ぐパフォーマンスとしては、電撃的な訪
問が行われた。サンカラは、大統領就任後も警備もつけず乗り合いバスで単身里帰りしたり、
自身で飛行機を操縦して突然地方都市に訪れたとも言われている(Sawadogo:47)。国連総
会出席のためニューヨークに到着したサンカラはハーレム地区を訪問し、「私のホワイトハウ
スは、ブラックハーレムの中にある」と演説した25)。サンカラは、大衆車を公用車 26) とした
ことで知られているが、自身は後部座席ではなく助手席に座った(Sawadogo:138)。サンカ
ラは、個人崇拝を禁じ、公的な場での肖像写真掲示も行わなかった(Sawadogo:151)。これ
らのパフォーマンスを通じて、大衆に近い指導者であることを印象付けようとした。
 サンカラは、演説とスローガンのたたみかけによって「人民の敵」を徹底的に糾弾する手
法を取った。公式スローガン「祖国か死か、我々は勝利する」(“La partie ou la mort, nous
vaincrons”)をあらゆる場面で連呼した(Dubuch:46-48)。しかし、国民の多くがフランス
語を十分に理解しない状況において、地方においては各種スローガンの浸透は不十分であった。
その一方、反作用として国家スローガンを逆手にとった「下からの政治」27) も水面下で広がっ
ていた(Dubuch:49-51)。

 “La patrie ou la mort? Ici, on a la patrie, ça nous souffit !”
  (「祖国か死か?ここには祖国がある。それで十分だ!」)


 “La Patrie, c’est Bobo, la mort, c’est ouaga, et nous vaincrons, c’est Pô”
  (「祖国とはボボデュラソのことだ。死とはワガドゥグのことだ。ポが勝利する」)


“Burkina Façon, Burkina Facho, Burkina-bête, Burkina-Boeuf, Burkina Bêê”
   (「ブルキナ的方法、ブルキナ的ファシズム、ブルキナの野獣、ブルキナ牛」)


 “Wirwaya (Le mensonge est arrivée) ” 
  (「ウソが来たる」)28)



4.3 革命政権における主要政策

 ここでは、4 年間のサンカラ政権における代表的な政策に関して検討したい。
 政権発足からちょうど一年後の 1984 年 8 月 4 日、サンカラ大統領は国名をオート・ヴ
ォルタからブルキナファソに改称した。同時に革命色の強い新国歌(Ditanie)を採用した
(Englebert:107)。

 前述の通り、サンカラの基本的な政治手法は、対立する勢力を「人民の敵」と断罪しながら
権力から徹底的に排除するものであった。「人民の敵」として主に排除の対象とされたのは、
伝統的首長、経済界、宗教指導者であった。司法改革において、伝統的首長に大きな権限を与
えた植民地時代から続く法体系を変更しようとした (Jaffré 1989:126)。伝統的権威の周辺化
を図る一方で、これまで社会的周辺部(Cadets sociaux)に追いやられたプロレタリア農民
を政治的に優遇する政策に転換しようとした(Otayek 1996:13)。現在、ブルキナファソは
西アフリカのフランス語圏諸国の中で分権化の先進モデルとして広く知られているが、その起
源は首長を政治権力から排除した後に新たな権力ネットワークを構築することを目的としてい
た。

 経済界は国家ブルジョワジーとして人民の敵扱いされ、冷遇された(Martens:7、
Englebert:164)。ポピュリズム的な政策として、ブルキナ人入居者への家賃減免令が出され、
収入激減を余儀なくされた家主の間で大きな不満が募った(Sawadogo:152)。また、夜間の
消灯令は大きな経済的損失を及ぼしたが(Englebert:164)、国内にいる敵に対抗することを
理由に継続された29)。

 次に、農村部における宗教指導者のマラブーに矛先が向けられた。マラブーの特別な地位
を否定し、農作業を強制したことは、農村の人々の間にサンカラ政権への憎悪をかきたてた
(Pillet-Schwartz:31)。実際のところ、農民を優遇するといいながら、サンカラは農地改革に
失敗した(Otayek 1996:11)。また、革命政権は食糧増産のために農民に長時間労働を課し
たため、農民の目にはサンカラは独裁者と映った(Martens:136)。伝統文化、宗教を否定し
たサンカラの革命は、農村の人々のメンタリティーを変えなかったばかりか、皮肉なことに自
分達で助け合うしかないという確信を強める結果となり、逆に民族・地域主義を助長する結果
となった(Pillet-Schwartz:39)。

 サンカラは、国家歳出の 70%が人件費に向けられる財政状況に不満であり、実現はしなか
ったものの公務員給与を半額にして教育に回す案を出した。財源不足を公務員への諸手当の削
減や、軍人給与の 10%削減など公共部門の犠牲によって補填しようとした30)。さらに公務員
の生活を締め付けたのが、EPI 制度(Effort populaire d’investissement:投資のための人民
の努力)であった。EPI のために公務員給与からの天引きが行なわれた。さらに、公務員への
無料官舎提供も廃止された(Labazée 1989:22)。特に軍人の給与引き下げは、アフリカ諸国
において注目に値する出来事であった31)。サンカラの自身の給与も、46 万 FCFA(当時のレートで約 18 万円、内訳:大尉としての本給与 16 万 FCFA、大統領手当て 30 万 FCFA)と抑制
した(Sawadogo:121)。綱紀粛正のため、公務員の勤務振り(勤務時間内の飲酒、整理整頓
のチェック)を確認するためのサンカラ自身による突然の官庁訪問が行なわれた(Sawadogo:
53-54)。このように、サンカラの国際的な名声の高まりの裏側で、国内では給与削減と各種の
優遇を剥奪され、管理が強められた官僚の恨みが蓄積されていった(Sawadogo:84)。

 国内製造物消費運動が提唱され、愛国心を示すことを目的に公務員に対して国産綿織物(Faso Dan Fani)で縫製された衣服の着用が強制された

公務員に対する給与引き下げや優遇の一部廃止に加えて、購入費用一万F CFA(当時のレートで約 4000 円)の高価な出費を強いたことへの不満が高まっていた。また、採算に合わないカリテバターによる化粧品製造や照明用の油の生産が提唱された (Jaffré 1989:144、Martens:198)。

このように、サンカラの経済政策は市場を無視したものが多く、象徴的な例が採算割れの地域に設置された 90に上る国営人民商店の設置であった。人民商店は、開店後間もなく閉鎖を余儀なくされた32)。

写真 2: Faso Dan Fani (右側のサンカラが着用している衣服)
出典)Thomas Sankara Website
出典)Thomas Sankara Website

 サンカラは、スポーツを政治的社会化の主要な手段と位置づけた(Augustin:64-65)。ス
ポーツ参加を革命への個人の参画度の指標にしようとした(Labazée 1989:23)。「スポーツ
好きな人は健康な人であり、生産的な人である」との公式スローガンが掲げられた。毎週木曜
日が「大衆スポーツの日」(Sport de masse)と定められ、17 時からスポーツ活動を行なうこ
とが推奨(実質的には強制)された。公務員へのスポーツ強制と共に、運動テストの記録に応
じて点数をつけ、人事評価に反映させようとまでした(Augustin:61-62)。

 しかし、時と共に、スポーツ励行の義務に対して様々な形で(練習参加の遅延、点呼後の密
かな退散、疾病証明書の作成、CDR のマークが施されたジョギングウェアの購入拒否、など)
受動的抵抗が起こり始めた(Augustin:65)。CDR は、スポーツ義務を守らない公務員への対
策に追われた33)。

 もうひとつ、代表的なサンカラの政策として知られているのが、女性の地位向上であった。

革命を達成するために、開発アクターとしての女性の地位向上が不可欠であると表明された
(Jaffré 1989:107、Martens:171)。1985 年には女性週間(Benabdessadok:59)を実施し、
新しい家族法を公布した (Jaffré 1989:110)。また、女性の加工業への進出を支援した (Jaffré
1989:108)。一方、売春を資本主義の象徴として撲滅を掲げた (Jaffré 1989:110)。売春婦は、
ブルジョワ社会の犠牲者と位置づけられたが、根底にある経済問題を解決することがないまま
に、ひたすらに暴力によって排除された。20 時~ 2 時までの女性の外出は身分証携帯を義務
付けられ、不携帯の場合は売春婦とみなされ連行された。

 サンカラ政権においては、女性の革命翼賛組織である音楽組織(Colombes de la
révolution:革命の白鳩)が結成されるなど(Kanse:67)、女性の政治的な動員と組織化が
進んだ(Benabdessadok:54)。サンカラは女性の経済的自律を促すために、男性従業員の
給与の 1/3 を妻に直接支給する案(Salaire Vital)を打ち出したが、強い反対により断念した
(Benabdessadok:62、Jaffré 1989:109、Sawadogo:133)。さらに、「男の市場作戦」(Marché
au masculin)と名づけられた政策では、働く女性への理解と尊敬を高めるために男性の市場
体験日を設けた(Kanse:68)。これら一連のサンカラの女性政策により、女性を取り巻く環
境が根本的に改善されることはなかったものの、少なくとも女性問題を公に議論することはタ
ブーではなくなった (Jaffré 1989:111、Benabdessadok:64)。

 開発計画に関しては、鉄道敷設を国民による闘争(Batail du rail)と位置づけ、労働奉仕
を強制した。1985 年 2 月、鉄道敷設闘争が開始され、サンカラによってはじめのレールが設
置された。当初の計画では、北東部の都市カヤ(Kaya)を皮切りに鉱物資源があるサヘル地
方への延長が予定されていた34)。鉄道敷設闘争には、沿線地区の人々が動員された(Travail
communautaire)。

写真 3:鉄道敷設闘争広場(ワガドゥグ市)
出典)筆者撮影(2007 年 3 月)

 保健衛生・教育に関しては、予防接種部隊によるワクチン接種運動、労働者のための無料診
療所を設置した (Jaffré 1989:79-80、84)。1984 年には、ワクチン部隊の活動が開始され、
児童の 90%が予防接種を受けるなど、短期間で大きな成果を挙げた35)。国民の 92%が非識字
層である状況を改善させるための識字政策が強化された。48 日間の講習で 550 万人の識字化を目指した (Jaffré 1989:89-90)。

4.4 革命政権と国際関係

 内政のエキセントリックさに比較すると、サンカラ政権の外交は穏健であった。外交の基本
路線は社会主義諸国との協調であった。サンカラは首相時代から反帝国主義、反植民地主義を
掲げており、左翼政権であるアンゴラ、モザンビーク、北朝鮮、キューバと同盟関係にあった。
リビアとの密接な関係も維持した (Jaffré 1989:152-154)。

しかし、社会主義路線を基本としながらも東側諸国への決定的な依存を回避しようとした。

サンカラは、ソ連がブルキナの旱魃救済のために申し出た食糧援助を辞退した (Jaffré 1989:167)。

 サンカラは、1984 年の国連総会に向かう途中で訪問したキューバでカストロ議長と会談し、
ホセ・マルティ勲章を授与された36)。

サンカラは国連総会での演説において、経済・政治・文化的団結を失わせるような国際援助のあり方を非難し、ニカラグアのオルテガ左翼政権、南アフリカのアフリカ民族会議(ANC)、ナミビアの南西アフリカ人民機構(SWAPO)への支持を表明した37)。

 サンカラ政権と旧宗主国フランスとの関係はしばしば緊張した。1983 年 10 月、フランス・
アフリカ首脳会議(Vittel)への出席のためパリ空港に降り立ったサンカラを出迎えたのが同
年 5 月のサンカラ逮捕時の黒幕とされたペーヌ大統領府アフリカ担当官であったことに加え、
ミッテラン大統領(François Mittérrand)の出迎えがなかったことに憤慨し、エリゼ宮(大
統領府)で開催されたアフリカ首脳歓迎夕食会を欠席した(Jaffré 1989:169、Sawadogo:
90-91)38)。さらに、サンカラはフランスからの独立運動で流血の事態が生じたニューカレドニ
アの独立を支持するなど、時にフランスに対して挑発的な姿勢を示した (Jaffré 1989:156)。
ウフェボワニ(Félix Houphouët-Boigny)、ミッテランというベテラン政治家にとって、若干
34 歳のサンカラ大尉の存在は、慣例から外れた物腰、軍服での会議出席のため、「手に負えな
い子供」(enfant terrible)と映った39)。一方、フランスに近いガボンとは良好な関係を維持し
た (Jaffré 1989:157)。

 近隣諸国との関係はイデオロギーよりも善隣外交を優先させた。フランスに近いトーゴや
ニジェールとも不用意に緊張関係を作り出すことなく、相互の安全の保障と外交関係の安定
化を目指した (Jaffré 1989:159、Martens:234-235、238)。

サンカラは関係が悪化するガーナとトーゴの仲裁役も買って出た40)。左翼政権とは密接な友好関係を築いた。革命の先輩国ベナンとは密接な関係にあった (Jaffré 1989:160)。そして、ローリングス(Jerry JohnRawlings)率いるガーナは、サンカラ政権誕生を歓迎した。サンカラとローリングスとは世代、経歴、政治目標も共有していた。ローリングスは、サンカラとの関係を “Bold Union”、“TeamWork” と表現し(Englebert:192)、両国は防衛協定を結んだ (Jaffré 1989:163-164)。

1984 年末、革命記念日のガーナを訪問したサンカラは、アクラ空港到着時、敬愛するンクル
マの標語「アフリカは統一する」(Africa must unite)の横断幕と共に、ンクルマの息子達に
出迎えられた41)。

 しかし、独立以来、国境問題を抱えるマリとは緊張した関係が続いた。サンカラは、政権発
足から程なくしてマリを訪問し、両国の国境問題をハーグの国際司法裁判所に委ねることを提案した42)。しかし、1985 年末には領土問題を原因とする軍事衝突が発生した43)。サンカラは、
マリの背後に帝国主義の白人がいると、暗にフランスを非難した44)。マリとの衝突において、
サンカラ政権はリビアとソ連から武器提供を受けた(Englebert:197)。

サンカラは、腐敗にまみれたマリのトラオレ政権(Moussa Traoré)を打倒するための革命の輸出まで考えていた(Martens:236)。

 そして、最もフランスと密接な関係にあり、西アフリカの仏語圏諸国の盟主を自負するウフ
ェボワニのコートジボワールとの関係は、サンカラ政権にとって最もデリケートな外交課題と
なった。サンカラ政権発足後、ウフェボワニはブルキナファソに圧力をかけた(Englebert:
190)。コートジボワールは、次期に予定されていたオート・ヴォルタの西アフリカ経済共同体
(CEAO)の議長国就任を一度は拒否した45)。政権 No.2 のコンパオレを介在し、両国関係は
辛うじて修復され、ブルキナファソは 1984 年 10 月にようやく CEAO 議長国に就いた (Jaffré
1989:162)。

5 革命勢力内の路線対立とサンカラの暗殺

 1983 年の政権奪取直後から、政権運営をめぐってサンカラとコンパオレとの対立が始まっ
た (Jaffré 1997:196)。政権発足から間もなく、サンカラによる盟友リンガニの逮捕、コンパ
オレによる政権打倒の噂が駆け巡った46)。

 政権発足までのサンカラとコンパオレは非常に気のあった革命の同志であり、兄と弟のよう
な友人として知られていた。結婚するまでコンパオレはサンカラの両親の家で昼食を共にして
いた。サンカラの側近によれば、妻のシャンタルはコンパオレに、サンカラの下で No.2 にと
どまり続けることへの不満をたきつけた (Jaffré 1997:197-198、Somé:27)。暗殺当日の朝
も、サンカラは側近にシャンタルこそがコンパオレとの不仲の元凶であると話していた(Somé:
26)。

 また、政権発足当初から見られた取り巻き政治により、政治組織の制度化が進まず、政治機
能がマヒしていった(Martens:93)。コンパオレは、サンカラの取り巻きの中で自身を軽視
する動きと、生命の危険すら感じるようになった(Martens:66)。政権発足から 3 年を経た
頃より、コンパオレによる権力奪取のための準備が始まったとも言われている(Somé:15)。

1987 年には、コンパオレが CDR に代わり全ての政治機関(大学、コミュニスト団体を含む)
を掌握した(Somé:19)。友好国の支持の取り付け、中でもウフェボワニに対して政権奪取
後の根回しも行った(Martens:61)。

 強権的な政治を糾弾するサンカラ非難のビラが撒かれた事件に対して(Martens:43)、
1987 年 9 月はじめの OMR 会議において、サンカラは「犯人はこの中にいる」と間接的に
コンパオレを非難した。それに対して、コンパオレは自身への中傷に対して非難すると共に、
OMR 自体の意味にも疑問を呈した(Martens:47)。逆に、クーデタ直前の 10 月 12 日には
コンパオレ、リンガニ、ゾンゴを中傷するビラが撒かれた(Martens:56-57)。

しかし、サンカラは側近の度々の忠告にもかかわらず、コンパオレを排除することを拒否し続けた (Jaffré1997:237、Somé:28)。

 南東部のテンコドゴ(Tenkodogo)で開催された DOP 4周年記念行事で演説した学生代表が政権批判を行い、西部のウエ(Houët)地方の革命組織支部も同調した事件に対して、サン
カラは当事者を処罰するべく会議を招集したが、コンパオレ、リンガニ、ゾンゴは処罰に反
対しただけでなく、サンカラの取り巻きの増長に対する不満を表明したため会議は決裂した
(Jaffré 1989:255)。

サンカラは、自身の提案が拒否されたことに怒り、会議開始からわずか15 分後にドアを蹴って退出した(Martens:55、Jaffré 1989:254)。

 そして、暗殺の日が訪れた。10 月 15 日 20 時にコンパオレ、リンガニ、ゾンゴを粛清する
ための「20 時作戦」(Opération du 20 heures)が計画されていると聞き及んだコンパオレは、
クーデタに踏み切った47)。16 時、サンカラが大衆スポーツの日を励行し、トレーニングウェ
ア姿で会議場(Palais de conseil de l’entente)に戻った直後、コンパオレの指揮下にあるパ
ラシュート部隊が車で乗り付け、護衛を射殺しながら会議室に乗り込んできた48)。

 サンカラは、応戦しようと銃を構えながら最後の言葉を発した。

「皆さん、そこにいたまえ。彼らの狙いは私である。」49)


6 現代ブルキナファソ政治における革命の「修正」とサンカラ主義

 暗殺後のサンカラの遺体は家族に引き渡されることもなく、人目をはばかるように他の 12
名の犠牲者と共にワガドゥグ郊外(Dagnoën 地区)に埋葬された。サンカラ暗殺直後、妻子
の身柄はガーナ大使館が一時保護した後、コンパオレ率いる人民戦線(Front populaire、以
下 FP)が軟禁し、最終的にはボンゴ大統領の受け入れにより、ガボンに移送された(Somé:
74-77)。

 クーデタから四日後、初めて公の場に姿を現したコンパオレは、演説の中で前政権の政治を
総括した。コンパオレによれば、サンカラ政権の議論を拒否する姿勢、官僚主義、ファシスト
的政治が、知識人の間の不満と大衆の利益無視につながった。CDR(革命防衛委員会)と労働
組合との対立が修復不能な状態になり、CNR(革命国民評議会)は民主主義を拒絶する状態に
陥ったと非難した50)。

 コンパオレが掲げた「修正」(Rectification)とは、前政権の重大な過ちを訂正し、83 年革
命を実現するための政治的方向転換であると発表された51)。CDR を解消して新たな政策実施
機関として革命委員会(Comité révolutionnaire:CR)を設置した(Otayek 1989:5)。FP
による政権奪取後、サンカラ政権幹部逮捕の嵐が起った(Martens:267、278-279)。次いで、
強制的なスポーツ活動への参加と公務員への伝統的綿織物(Faso Dan Fani)着用義務が撤廃
された (Jaffré 1989:228)。他にも農産物の政府買い上げ価格上昇、売春婦への締め付け緩和
を行った。

 「修正」革命政権における重点課題は、権力の迂回を防ぐ組織の再編、民主主義的権力の集中、善隣外交であった52)。

しかし、「修正」革命においてもサンカラによって打ち出された DOP(施政方針演説)に基づいて政権運営されることが確認された53)。1990 年 3 月のコンパオレ演説では、革命に失敗した国としてベナン、コンゴ、エチオピアが列挙され、民主的・革命的法治国家は大衆からかけ離れた時代錯誤の理論に基づいてはならないと「修正」革命の正当性を主張した(Yé:19-20)。


 コンパオレは、サンカラとは異なり、権力基盤の確立のために盟友の生命を奪うことを厭わなかった。

83 年革命の「歴史的指導者」であるリンガニとゾンゴは、コンパオレ政権発足後、
名誉的にNo.2とNo.3の地位を与えられながらも実権はなく、不満を抱いていた。1989年9月、
アジア諸国歴訪から帰国直後のコンパオレ大統領の暗殺を企てたとして、リンガニ国防相、ゾ
ンゴ経済振興相は逮捕され、ただちに軍事法廷にかけられた後、翌日未明に処刑された54)。こ
れにより、83 年革命の 4 人の「歴史的指導者」の中での唯一の生き残りはコンパオレだけと
なった。

 コンパオレ政権では、伝統的首長は政治的復権を果たした (Jaffré 1989:267)。反体制勢
力は閣僚ポストなどを与えられて骨抜きにされた野党勢力となった(Loada:295)。1966
年のクーデタで失脚したヤメオゴ大統領の息子に対しては、父の名誉回復を条件に懐柔した
(Loada:296-297)。1989 年 4 月に創設された「大衆的民主主義のための組織 - 労働運動」
(Organisation pour la démocratie populaire / Mouvement du travail:ODP/MT)55)を中心
としたコンパオレ翼賛体制が敷かれた(Martens:287、301)。

 政権発足から一年を経て、コンパオレ政権は革命の「修正」に対する総括を行った。「修
正」一周年を記念して、1989 年 1 月に国民からの代表 1800 名を招いた国民大会(Assise
nationale)を開催した。コンパオレは、これまでに失敗を経験してきた複数政党制の導入が
民主主義の最終的解決であるとは言えず、より重要なことは歴史、社会発展を通して獲得され
る民主主義の文化であると主張した。コンパオレ政権では、市民社会(大衆組織、労働組合、
宗教、伝統的首長)との平和的共存が掲げられた56)。

 サンカラ暗殺に対するアフリカ各国の反応は対照的であった。

社会主義を掲げるローリングスのガーナや、サスンゲソ(Denis Sassou-N’guesso)のコンゴ(ブラザビル)は、コンパオレ政権を猛烈に非難した(Somé:49-51)。

それに対して、コンパオレはトーゴのエヤデマ大統領(Gnassingbé Eyadéma)、コートジボワールのウフェボワニ大統領との関係修復を試み、トーゴからは軍事協力も得た(Somé:173)。挑発的な姿勢を取り続けて来たサンカラ政権の崩壊は、フランスにとっては歓迎すべきことであった。コンパオレ政権は、国際金融機関との対話を再開し、経済の活性化を試みた(Otayek1989:9)。


 コンパオレ政権においては、政府メディアを通してサンカラ非難キャンペーンが繰り広げら
れた。独裁、個人政治、強権主義者、横領などのレッテルを貼り、サンカラの名誉を地に落とそうと試みた(Somé:61、76、Jaffré 1989:249)。

サンカラは、ブルキナのポル・ポトとまで中傷された (Jaffré 1989:211)。

そして、1987 年クーデタはサンカラによるクーデタを防ぐための防衛的手段であったと正当化された (Jaffré 1989:227)。1991 年にサンカラを国民的英雄に位置付け直したものの(Yé:138)、ブルキナ政治史からサンカラの行動、言葉を消そうと試みた(Somé:189)。

 コンパオレには、サンカラ問題に関する根本的なジレンマがあった。親友を血の海に沈めた
末に奪取した権力の正統性を確保するためには、サンカラは否定されなければならなかった。
その一方で、コンパオレ自身が 83 年革命の実質的な立役者でもあったことから、サンカラ革
命自体を全て否定することは、自己否定を意味することになる。そのため、革命の「修正」と
いう中途半端な旗を掲げての政権運営を余儀なくされた。

 コンパオレ政権による執拗なサンカラに対する誹謗中傷キャンペーンが繰り広げられたものの、サンカラは現在でも大衆の心の中に生き続けている。

没後 20 年を経た今日においても、サンカラは人々を魅了し続けている。サンカラ革命と同時代を生きた多くの人々の口からは、鉄道敷設闘争への無償労働奉仕、毎週の大衆スポーツへの参加が、良き想い出として語られ続けている。

 そして、亡きサンカラの影響力を取り込もうと、これまでにも様々な政治勢力がサンカラ主
義の継承者を名乗り活動してきた。サンカラ暗殺から 20 年を経ようとする現在、サンカラな
きサンカラ主義が何を意味し、現代ブルキナ政治においてどのような重みを持つのかを冷静に
見極める必要がある。

人々のサンカラ自身への支持と、サンカラ没後のサンカラ主義運動とは区別して考えるべきである。実際のところ、サンカラ主義への広範な支持の一方、サンカラ主義が何を意味するのかは、サンカラが生きていた時代から曖昧なままであった 57)。

サンカラ個人への熱狂的な支持に比較して、サンカラ主義を掲げる政党、政治組織への大衆からの支持は低いものに留まっている。

その理由としては、サンカラ主義政党の間における分裂と対立58)、
また政策面での政権与党との明確な違いがないことを挙げることができる。

サンカラ個人のカリスマは生き続けているにもかかわらず、サンカラ主義運動は色あせているといわざるを得ない。

 また、サンカラの暗殺から 20 年を経て、サンカラを直接知らない世代が投票権を得る年代
に達し始めており、サンカラ主義政党にとって、今後サンカラのカリスマ性のみに依拠して支
持を維持、拡大することはますます困難になっていくだろう。依然として、若い世代の間でも
サンカラへの憧れは強いが、しかしあくまでも「過去」の人物として、イメージが不鮮明な英
雄としてであり、共時的な英雄としてではない。

 政権奪取後、コンパオレ政権はサンカラの象徴権力を弱めようと手を尽したにもかかわらず、
暗殺によってサンカラはアフリカ革命の殉教者となり、神話化された。サンカラ事件は、国連人権委員会でも審理されたように国際的にも注目を集めた59)。

サンカラ夫人を代表とする原告団は、ブルキナファソ政府に対してサンカラ暗殺の実行者の逮捕と処罰、死亡場所の特定、病死とされた死亡証明書の死因の訂正、遺族への補償と軍人年金支給などを求めて提訴を行ってきたが、裁判所は訴状の受理すら行わなかった。

そこで、原告団は国連人権委員会に審理を求めた。

サンカラ神話は、コンパオレ政権に心理的圧力をかけ続けてきた。そのことが、サンカラのコンパオレに対する最大の復讐となっている(Otayek 1989:2)。

 政権発足から二年を経て、コンパオレ政権は国家の最高法規としては曖昧な DOP ではなく、
憲法制定の必要性を感じるようになった(Yé:15)。

1990 年、新憲法制定にむけた憲法起草委員会が設置されたが、委員の大半は政権側から選出された60)。同年 12 月、憲法草案に関する国民集会が各層の代表 2200 名を集めて開催された61)。開会挨拶で、コンパオレ大統領は唱えるだけでは民主化は実現しないと憲法制定に際しても慎重な姿勢を示した62)。

 起草過程において、委員からは国家の基本的な性格に関して「革命」、「反帝国主義」の言葉
を削除すべきという意見もあったが(Yé:113)、結局のところ維持された。国家スローガン「祖
国か死か、我々は勝利する」が、革命的過ぎるとして見直しも検討されたものの(Yé:89)、
最終的には維持された。大統領の正式呼称(Président du Faso)も維持された。このように、
サンカラ革命の「修正」を掲げたコンパオレ政権による憲法体制への復帰に際しても、サンカ
ラ革命の基本路線は継承された。コンパオレ政権の最重要政策として知られ、西アフリカフラ
ンス語圏諸国の先進モデルとされている地方分権化が本格的に着手された。分権化は、83 年
革命によって導入された政策であると述べ、ここにもサンカラ政権からの継承が見てとれる
63)。

 体制派によって進められた新憲法起草と国民投票によって第四共和国憲法が制定された。
憲法制定後に実施された 1991 年の大統領選挙は 25.12%という非常に低い投票率の中で、
86.19%という得票率でコンパオレが当選した(Yé:155-156)。

翌年の議会選挙の投票率はわずか 25.28%であった(Otayek 1996:56)。

このようにブルキナファソでは、国民の無関心の中で骨抜きにされた「民主化」が進められようとした。それに対して、野党は低投票率を理由に選挙の無効と、ベナンなどで開催された主権の時限的移譲を伴う国民会議(Conférencenationale souveraine)招集を要求した(Yé:156)。

野党は国民会議招集に加えて、大統領選挙より以前の議会選挙の実施、在外ブルキナ人の投票を認めることを要求してデモ行進を行なった。

それに対して、体制側は国家制度に関して国家元首と政府が措置を講ずることを明記し
た憲法 170 条を根拠に国民会議開催を拒否した(Yé:138)。妥協策として、1992 年 1 月に
国民和解フォーラム(Forum de réconciliation nationale)が開催されたが、冒頭から会議に
対する報道の方法をめぐって紛糾し、開始から一ヵ月半後、何の成果も上げることなく打ち切
られた(Yé:159-160、Loada:291)。

7 むすびに代えて ~「思想は死なず」~

 2007 年 2 月、ワガドゥグ・アフリカ映画祭(FESPACO)に沸くワガドゥグ市内で、映画
祭に正式出品を認められなかったサンカラに関するドキュメンタリー映画 “Homme Intègre”
(「高潔なる人」、Robin Shuffield 監督、フランス、2006 年)64) が自主上映された。多数の観
客が押し寄せ、その後 3 月上旬までに少なくとも三度の追加上映が行われた。

 サンカラは自身の暗殺の1週間前に、ワガドゥグでゲバラ没後 20 周年を記念した式典を開
催した。

サンカラは式典での演説の中で、

「(ゲバラ死すとも)彼の思想は全世界で生き続けている」

(“On ne tue pas les idées”)と述べた65)。

2007 年(小稿執筆時)は彼自身の没後 20周年にあたり、国内外でサンカラを求める多くの人々を惹き付けた。

 同年 10 月、メキシコを皮切りに1ヶ月かけてヨーロッパ、アフリカ諸国で展開されたサン
カラに関するキャンペーン・キャラバンの締めくくりとして、暗殺日の 10 月 15 日に向けて
ワガドゥグ市内で 5 日間にわたってサンカラ追悼行事が行われた。この年の追悼集会は、例年
以上に盛大なものとなった。

 これに対し、ブルキナファソ政府は、国連人権委員会にも提訴されたサンカラ問題に関して
国際社会を刺激しないようにするため、国内でのサンカラ関連行事の開催を黙認せざるを得
なかった。しかし、政府は治安機関によって監視を行いながら、水面下でサンカラ追悼行事の
ための会場確保を妨害し、政府系メディアによるテレビ報道も控えて国民への露出を最小限に
とどめた66)。その一方でサンカラ関連行事をかき消そうとするかのように、コンパオレ政権の
20 周年を祝う一連の行事については、政府系メディアを通じて大々的に報じられた67)。

 サンカラ自身は、自ら改称した国名(ブルキナファソ:高潔な人の土地)のように政治指導
者として高潔さを貫いた。

国家元首の地位にあっても、その権力が私的蓄財に向けられることはなかった。革命の名の下に、伝統的首長を権力から排除する政治的近代化、ブルジョワ階級への冷遇、弱者の救済に基づく平等な社会の実現、安価な住宅の供給、社会インフラの整備、国内製造業振興、識字率向上、女性の地位向上、予防接種の普及、汚職撲滅、スポーツや国民文化の振興に力を入れることによって、社会の仕組みを根本から変えようと試みた。

国際関係においても、反アパルトヘイト運動への支持や途上国の地位向上、債務帳消しを堂々と主張し、時に旧宗主国フランスとも真正面から対峙した。

さらに、政権の長期化によって腐敗が表面化する前に、高潔な人物像を維持したままで悲劇的な最期を遂げたことがサンカラを神話化させた。

 サンカラの目指した国づくりは明確で高潔な目標に基づいていた。

しかし、目標を達成するための方法論は、強権的で柔軟性に欠けるものであった。サンカラは、遠くを見すぎて革命を急ぎ過ぎた68)。

その結果、サンカラが敬愛したンクルマと同じ道をたどることになった。

サンカラは、自身の思想への固執、異なる意見の抹殺、政治的対抗者への弾圧を通じて独裁への道を突き進んだ末に権力から転落したンクルマの経験から学ぶことはできなかった。

サンカラは、ンクルマと並び敬愛したカブラルのように様々な意見に耳を傾けながら、革命の敵であるプチ・ブルジョワジーの階級的自殺を期待するゆとりを持ち合わせていなかった。

 サンカラが国づくりの基盤としようと考えた「人民」(peuple)のイメージは、時に現実からかけはなれた想像上のものに過ぎなかった(Le Roy:73-74)。

サンカラは、腐敗や不平等にまみれた当時のアフリカ政治に対するアンチテーゼとして革命的な英雄となったが、彼の死後に訪れた民主化の時代を担う指導者の資質を持ち合わせてはいなかった。サンカラの命を奪い、政権を奪取したコンパオレは、硬軟織り交ぜながら革命をより穏健な路線に「修正」しようとした。


 最後に、サンカラ革命の現代ブルキナファソ政治、アフリカ政治全般における意味について
考えることで小稿の結びとしたい。

 サンカラは、大衆的民主的革命を掲げた。しかし、政治的決定はサンカラと側近によって密
室で行われることが多く、広範な政治的参加を保証する民主主義からは程遠い政治状況であっ
た。時と共に、政治機関は機能不全に陥り、意思決定はサンカラの独断で行われることが多く
なり、異なる意見に耳を傾けることがなくなった。サンカラは、民主化の時代の到来前にこの
世を去った。現在も高潔な革命指導者として人々を惹きつけ続けるサンカラであるが、秘密投
票を拒否し、挙手による投票を主張し続けたように69)、自由な政治的競争と多様な勢力の政治
参加を可能にするという意味での民主化を実現する考えは持ち合わせていなかった。
 サンカラが行った政治はエキセントリックで柔軟さに欠ける部分が目に付いたにもかかわら
ず、没後 20 年を経てもサンカラが国内外の多くの人々を惹きつけ続ける状況は軽視できない。
サンカラと他の指導者との決定的な違いは、権力を私欲に向けることなく、言葉だけでなく革
命を自らの身で示し続けたことである。独立前から続いてきた既得権益を否定し、社会的弱者
の権利を拡大することによって、より平等な社会を実現しようとするサンカラの政治的理念は
大衆の心を強く動かした。そして、サンカラの政治的パフォーマンスは大衆の一人一人が革命
の主人公であるという一体感と陶酔感をもたらした。

 政治体制の観点から見れば、サンカラ政権は典型的な権威主義政権であった。しかし、大衆
の意識の中には自ら進んで参加した革命への想い出が懐かしいものであり続けている。サンカ
ラ自身は死に、サンカラ主義は色あせながらも、大衆の中で共有されるサンカラ革命への郷愁
は現在も根強い。皮肉なことに、いかにサンカラの亡霊を払拭しようとしても、兄弟殺しの末
に権力を奪取したコンパオレが権力の座にいる限り、人々はその背後にサンカラを見続けるの
である。

 小稿におけるブルキナファソの革命に関する再考によって、現代アフリカ政治における革命
の意味について一般的な結論を与えることは拙速であるが、小稿を通じて考えたことをまとめ
てむすびと代えたい。現代世界において、政治運動としての「革命」はノスタルジーの世界の
ものとなった。将来のアフリカ政治においても、これまでと同じスタイルの革命政権は現れに
くいであろうし、たとえ現れたとしても短命で終わるだろう。しかし、それは理念としての革
命まで消滅したことを意味するものではない。

 没後 20 年を経た現在においても、サンカラが実現しようとした新植民地主義からの完全な
独立、農民救済、男女平等、予防接種の普及、識字率の向上などの改革への支持は現在も続い
ているように、革命によって上記の課題が実現されると考える人々も少なくない。グローバル
化によって、世界経済・社会関係における周辺に位置づけ直されたアフリカにとって、革命の
精神は形を変えながら生き続けていくだろう。


<参考文献>

(外国語文献)

20 岩田拓夫
※小稿は、文部科学省科学研究費補助金(研究課題名:地方分権化時代
における西アフリカの地方政治の変化と課題、若手研究B、課題番号
19730120)の支援による現地調査・資料調査を経て公刊することができま
した。ここに、記して感謝申し上げます。
Augustin Jean-Pierre, Drabo Yaya, “Au Sport, citoyen ! ”Politique Africaine, No.33, 1989, pp.59-65.
Benabdessadok Christine,“Femmes et révolution,”Politique Africane, No.20, 1985, pp.54-64.
Chabal Patrick, Amilcar Cabral: Revolutionary Leadership and People’s War, Africa World Press,
    Trenton-Asmara, 2003.
Dubuch Claude,“Langage du pouvoir, pouvoir du langage,”Politique Africane, No.20, 1985, pp.44-53.
Englebert Pierre, La Révolution Burkinabè, Harmattan, Paris, 1986.
Jaffré Bruno, Burkina Faso, les années Sankara, Harmattan, Paris, 1989. 
Jaffré Bruno, Biographie de Thomas Sankara, Harmattan, Paris, 1997.
Kanse Mathias Saoni, “Le CNR et les femmes: de la difficulté de libérer la moitié du ciel,” Politique
     Africaine, No.33, 1989, pp.66-72.
Labazée Pascal, “Réorganisation économique et résistances sociales : la question des alliances au
    Burkina,” Politique Africaine, No.20, 1985, pp.10-28.
Labazée Pascal, “Discours et contrôle politique: Les avatars du Sankarisme,” Politique Africaine,
    No.33, 1989, pp.11-26.
Loada Augustin, “Blaise Compaoré ou l’architecte d’un nouvel ordre politique,” Otayek René et al.,
    Le Burkina entre révolution et démocratie (1983-1993), Karthala, Paris, 1996, pp.277-297. 
Martens Ludo, Sankara, Compaoré et la révolution Burkinabè, Editions Epo, Berchem, 1989.
Nkounkou Dieudonné, L’Affaire Thomas Sankara, KuljaamaOpcion, Mexico, 2007.
Organisation Panafricaine des Journalistes Indépendants, L’assassinat de Norbert Zongo: Crime d’Etat
     contre un journaliste, Editions Minsi D.S, Bonneuil sur Marne,1999.
Otayek René, “Avant-propo: Rectification,” Politique Africaine, No.33, 1989, pp.2-10.
Otayek René et al., Le Burkina entre révolution et démocratie (1983-1993), Karthala, Paris, 1996.
Pillet-Schwartz Anne-Marie, “Ethnisme et régionalisme dans l’ancien Liptako: un effet de la
    sécheresse ou de la révolution?” Otayek René et al., Le Burkina entre révolution et démocratie
     (1983-1993), Karthala, Paris, 1996, pp.23-41.<註>
Le Roy Etienne, “Une mémoire vivante ? Quelques réflexions à propos de la commémo
    anniversaire de la mort de Sankara,”Politique Africaine, No.33, 1989, pp.73-74.
Sawadogo Alfred Yambangba, Le président Thomas Sankara: Chef de la Révolution Burkinabé 1983-1987,
    Harmattan, Paris, 2001.
Somé Valère D, Thomas Sankara: L’éspoir assassiné, Harmattan, Paris, 1990.
Yé Bongnessan Arsène, Burkina Faso: les fondements politiques de la vie République, Presse universitaire de
    Ouagadougou, Ouagadougou, 1995.


(邦語文献)

アレント・ハンナ『革命について』ちくま学芸文庫、1995 年。
岩田拓夫『アフリカの民主化移行と市民社会論―国民会議研究を通して―』国際書院、2004 年。
岩田拓夫「クワメ・ンクルマ―パン・アフリカニズムの盟主を目指して―」石井貫太郎編著『開発途上国の政治的リーダーたち』ミネルヴァ書房、2005 年、309-329 頁。
岩田拓夫「「下からの政治」とアフリカの国家」川端正久、落合雄彦編『アフリカ国家を再考する』晃洋  書房、2006 年、171-194 頁。

(新聞・雑誌)
Indépendant (非政府系週刊紙)
Journal du Jeudi (非政府系風刺画週刊紙)
Jeune Afrique (アフリカ政治経済週刊誌)
Sydwaya (政府系日刊紙)
(その他)
Discours d’ orientation politique (施政方針演説、1983 年 10 月 2 日)


<註>

アフリカの革命政権再考 21

1)特段の断りなく「アフリカ」と表記する場合は、サハラ以南アフリカ地域を指すものとする。

2)独立からサンカラ政権発足時までの国名は、オート・ヴォルタ(Haute Volta、英語では Upper
Volta:ヴォルタ川上流の意味)であった。政権発足から一年後(1984 年)、現在の国名に改称された。
ブルキナファソ(Burkina Faso)とは、現地語のモレ語(Mooré)とジュラ語(Dioula)のかけ合わせ
で「高潔なる人の土地(国)」を意味する(Sydwaya, No.6023, 2007 年 10 月 15 日)。

3)特記されるのはノルベール・ゾンゴ(Norbert Zongo)暗殺事件である。ゾンゴは、コンパオレ
政権の腐敗、人権問題、選挙不正、大統領の弟の運転手(David Ouédraogo)の殺害事件など政権の暗部を追及し続けた、ブルキナファソを代表する新聞記者であった。ゾンゴ事件の詳細に関しては、Organisation Panafricaine des Journalistes Indépendants(1999)、Nkounkou(2007)を参照。

4)小稿ではブルキナファソの民主化プロセス自体を詳細に議論する紙幅はないが、サンカラ暗殺後発足したコンパオレ政権下で複数政党制を認める憲法を制定し(1992 年)、1990 年代はじめにベナン、トーゴ、マリ、ニジェールなどの近隣国において民主化移行のために暫定的に国家主権を移譲する形で開催された国民会議(国民会議によるアフリカの民主化移行に関しては岩田(2004)を参照)招集の要求を拒否し、アフリカの民主化の波を強引に乗り切った。1997 年には憲法中の大統領の任期制限に関する項目を削除し、事実上の終身大統領制を敷くなど(2004 年には、2015 年までの在職を可能にした上での任期制限条項復活)、民主主義の定着とは程遠い現状にある。
5)国外に住むブルキナ人でさえも、インタビューでは名前や顔を明かさないように要求する (Jaffré  1997:9、Robin Shuffield 監督とのインタビュー、2007 年 3 月 27 日、パリ )。

6)Thomas Sankara Website (http://www.thomassankara.net、 2007 年 8 月 31 日アクセス)

7)ンクルマについては、岩田(2005)を参照。

8)カブラルについては、Chabal(2003)を参照。

9)辞任後逮捕されたヤメオゴは 1969 年に懲役 5 年の判決を受けたが、後に恩赦(市民権は剥奪)された(Englebert:46)。

10)サンカラは、農民に対する(正確には、商業従事者、遊牧民を除く、18 ~ 60 歳の非給与所得者)見積所得に対する課税を廃止した(Ordonnance No.84-069/PRES/CNR/MRF/DGI portant
   suppréssion de la sixième catégorie de l’Impôt forfaitaire sur le revenu)。

11)Jeune Afrique, No.1169, 1983 年 6 月 1 日。

12)Jeune Afrique, No.1151, 1983 年 1 月 26 日。

13)Jeune Afrique, No.1169, 1983 年 6 月 1 日。

14)ウエドラオゴ前大統領は逮捕、投獄(2 年後に釈放)された (Jaffré 1997:170)。
15)Jeune Afrique, No.1169, 1983 年 6 月 1 日。

16)Sydwaya, No.119, 1984 年 10 月 2 日。

17)Sydwaya, No.251, 1985 年 4 月 15 日。

18)Sydwaya, No.119, 1984 年 10 月 2 日。

19)Jeune Afrique, No.1169, 1983 年 6 月 1 日。

20)Sydwaya, No.119, 1984 年 10 月 2 日。

21)Jeune Afrique, No.1193, 1983 年 11 月 16 日。

22)“Document,” Politique Africaine, No.33, 1989, pp.81-83.

23)Sydwaya, No.180, 1984 年 12 月 31 日。

24)“Document,” Politique Africaine, No.33, 1989, p.83.

25)Sydwaya, No.123, 1984 年 10 月 8 日。

26)1986 年には BMW を購入した(Sawadogo:138)。

27)「下からの政治」については、岩田(2006)を参照。

28)政府系日刊紙 Sydwaya(真実が来たる)の名称を揶揄した。

29)Sydwaya, No.167, 1984 年 12 月 11 日。

30)Sydwaya, No.162, 1984 年 12 月 3 日。

31)Sydwaya, No.167, 1984 年 12 月 11 日。

32)“Document,” Politique Africaine, No.33, 1989, p.85.

33)Sydwaya, No.170, 1984 年 12 月 14 日。

34)Sydwaya, No.202, 1985 年 2 月 4 日。

35)Sydwaya, No.180, 1984 年 12 月 31 日。

36)Sydwaya, No.124, 1984 年 10 月 9 日。

37)Sydwaya, No.123, 1984 年 10 月 8 日。

38)Jeune Afrique, No.1188, 1983 年 10 月 12 日。

39)Ibid.,

40)Jeune Afrique, No.1360, 1987 年 1 月 28 日。

41)Sydwaya, No.181, 1985 年 1 月 4 日。

  サンカラがンクルマを敬愛していた例として挙げられることは、1984 年 10 月に西部の Orodara での空港開港に際して、クワメ・ンクルマ空港と命名したことがある(Sydwaya,
  No.180,1984 年 12 月 31 日)。ワガドゥグ市中心部の大通りにもンクルマの名が冠されている。

42)Sydwaya, No.427, 1985 年 12 月 30 日。

43)Sydwaya, No.426, 1985 年 12 月 28 日。

44)Sydwaya, No.427, 1985 年 12 月 30 日。

45)Jeune Afrique, No.1194, 1983 年 11 月 21 日。

46)Jeune Afrique, No.1193, 1983 年 11 月 16 日。

47)“Document,” Politique Africaine, No.33, 1989, p.88.

48)Indépendant, No.736, 2007 年 10 月 16 日。

49)Jeune Afrique, No.1477, 1989 年 4 月 26 日。

50)Sydwaya, No.1196, 1989 年 1 月 23 日。


51)Sydwaya, No.1198, 1989 年 1 月 25 日。

52)Ibid.

53)Sydwaya, No.1199, 1989 年 1 月 26 日。

54)Jeune Afrique, No.1500, 1989 年 10 月 2 日。

55)組織の再編と小政党の吸収により、1997 年に現在の与党である「民主主義と進歩のための会議」 (Congrès pour la démocratie et le progrès:CDP)に再編された。

56)Sydwaya, No.1575, 1990 年 8 月 3 日。

57)Journal du Jeudi, No.838, 2007 年 10 月 11 日。

58)サンカラ主義を掲げる政党は離合集散を繰り返しながら、「再生のための連合―サンカラ運動」
  (Union pour la renaissance / Mouvement Sankariste:UNIR/MS)と、「サンカラ主義政党連合」
  (Union des partis sankaristes:UPS)という 2 つのサンカラ主義政党連合として、2007 年 5 月
  の国民議会選挙に臨んだ。

59)国連人権委員会における審議の結果、2006 年 3 月にブルキナファソ政府に対して出された勧告は、サンカラ暗殺事件に関する調査実施、死亡場所の特定、死亡証明書の訂正、訴状の受理、などを求めるものであった(Comité des droits de l’homme, Nations Unies, 86e Session, 13-31 mars2005, CCPR・C/86/D/1159/2003)。勧告を受けて、司法当局は死亡証明書の訂正を行った。死亡場所をワガドゥグ市と訂正したものの、「病死」とされていた死亡原因は削除されたのみであった (Nkounkou:89-109、242)。

60)憲法起草委員は、FPから 64 名、野党から 4 名、労働組合から 13 名、法律の専門家から 17 名、NGO から 2 名、宗教組織から 4 名の代表によって構成された(Yé:26-34)。

61)Sydwaya, No.1667, 1990 年 12 月 14 日。

62)Sydwaya, No.1668, 1990 年 12 月 17 日。

63)Sydwaya, No.1207, 1989 年 2 月 7 日。

64)この映画は、政治指導者サンカラの 4 年間の軌跡に関して映像アーカイブを通じてたどることに加え、当時の政権関係者へのインタビューによって構成されている。上映中の会場では、サンカラが登場する度に大きな喝采が起き、サンカラの暗殺を目論んだとされる人物(コンパオレ大統領)が登場するとブーイングが起った(Journal du Jeudi, No.807, 2007 年 3 月 7 日)。

65)ゲバラ没 20 周年記念行事での演説(1987 年 10 月 8 日、ワガドゥグ)。

66)Indépendant, No.736, 2007 年 10 月 16 日。

67)Indépendant, No.735, 2007 年 10 月 9 日。数年前からサンカラ暗殺を想起させるコンパオレ政権発足の記念日を祝する行事が行われていなかったが、2007 年はサンカラ没後 20 周年行事をかき消す目的で開催されたとみる向きもある。

68)Jeune Afrique, No.1477, 1989 年 4 月 26 日。

69)Shuffield 監督とのインタビュー(2007 年 3 月 27 日、パリ)。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


2014年1月

 ブルキナファソ出身の友人にトマ・サンカラと現在の大統領ブレーズ・コンパオレのことを尋ねてみた。

先に、トマ・サンカラがブレーズ・コンパオレを暗殺しようとした。

たまたま難を逃れたブレーズ・コンパオレがヤラなければ、ヤラれると思いトマ・サンカラを殺害。

しかたがなかったんだ、と友人が話してくれた。


 歴史は、いま現在の方が闇に包まれていることが多い。


アメリカのケネディー大統領暗殺。

ヨハネパウロ1世の毒殺。

石井紘基議員刺殺。

などなど。



0 件のコメント:

コメントを投稿