2015年3月23日月曜日

メキシコのサパティスタの反乱

2015年3月23日

 昨日、クルドの新年のお祭り ネウロズ Newrozに行ってきました。

 クルドを調べていてこんな記事を見つけました

「 サパティスタの中核的なモットーに「別の世界が可能だ」というのがあります。

私たちも敢えてその標語を信じ、チアパスのサパティスタを、ロジャバのサパティスタを支援しなければなりません。 」

藤永茂さんのブログ「私の闇の奥」 ロジャバ革命(2) より



サパティスタの反乱

ウィキペディアより

1994年1月1日にメキシコチアパス州ラカンドンでサパティスタ民族解放軍が起こした反乱。この日は北米自由貿易協定が発効する日であった。


北米自由貿易協定 NAFTA:North American Free Trade Agreement

カナダ、メキシコとアメリカ合衆国によって署名され、北アメリカにおいて3か国による貿易圏を生み出した自由貿易協定である。1992年12月17日に署名され、1994年1月1日に発効した。


 域内の人口は約4億5751万人

(アメリカ約3億1085万人、カナダ約3433万人、メキシコ約1億1232万人、すべて2010年)、

GDPは約17兆1,918億ドル(うちアメリカが約14兆6,241億ドル、2010年)に達する。

(欧州連合は2010年現在27か国、域内人口は約5億0210万人、GDPは約16兆1,068億ドル)

 NAFTA成立以降、域内の貿易は拡大し、特にメキシコではマキラドーラが成長しアメリカとの国境地帯の所得はNAFTA発効後の10年間で15.5%増加した[1]。

逆にアメリカでは職がメキシコに流出したとして批判された。
アメリカの域内での貿易赤字は2010年で約7.5兆円で、これはアメリカの総貿易赤字の26.8%にあたる。

 交渉の段階では農業の分野が特にメキシコで懸念されたが、1994年から2001年の間にメキシコの農産物の輸出は9.4%増加したのに対し農産物の輸入の増加は6.9%だけであった[2]。

NAFTAの影響は、

肯定的なものも否定的なものも含め、経済学者によって定量化され、世界銀行が発行した「ラテンアメリカとカリブ海諸国のためのNAFTAの教訓」、

「NAFTAが最初の10年間に北米に与えた影響」、

国際経済問題研究所が発行した「NAFTA再考」、

などの発行物において報告されている。

 NAFTAは3か国のすべてにおいて企業家やエリートには利益をもたらしたが、メキシコの農家はアメリカのアグリビジネスによる安い輸入農産物によって被害を蒙り、またアメリカの製造業に従事する労働者も職を失ったと主張している。(※誰が言っているのか?)

批評家たちはまた、NAFTAによってアメリカとメキシコ両国において格差が拡大したと主張している。

メキシコの農家への影響

2000年、アメリカ政府はトウモロコシ農家への補助金を100億1000万ドル支払っていた。

これらの補助金はメキシコの農家と食料自給率を危険にさらすダンピングの原因になっていた。

他の研究者は、NAFTAが存在する10年前から穀物の生産量が増加している傾向が存在し、NAFTAが発行してからもトウモロコシの生産が増加し、補助金を交付されたアメリカ農家が作った輸入トウモロコシがメキシコのトウモロコシ価格に計測可能な影響を与えた形跡はなく、アメリカの農業への補助金の廃止がメキシコの農家にとって利益をもたらしたことには同意しながらも、貧しい農家の収入の減少を強いる原因であるとしてNAFTAを拒絶している。

グレアム・パーチェイス(Graham Purchase)の「無政府主義と環境の存続、Anarchism and Environmental Survival 」によると、NAFTAは「企業の利益によってメキシコ人が革命で得たエジード(Ejido、村の小作農が協力して土地を所有する形態)を破壊し、地方の人々の利益を完全に無にする脅威」の原因になりかねないという。


NAFTAに反対するサパティスタ民族解放軍のチアパス州での蜂起

詳細は「サパティスタ民族解放軍」を参照

 NAFTAの準備にはエミリアーノ・サパタが主導した1910年から1919年の革命の記念碑的存在だったメキシコの憲法27条の廃止が含まれていた。

歴史的な27条によって、先住民の共用地は売却や私有化から守られていた。

しかしNAFTAによって、この保証は投資する際の障壁であると定義された。
27条の廃止によって、先住民族は彼らに残された土地の喪失の脅威にさらされ、またアメリカからの安い輸入品が洪水のように押し寄せた。

こうして、サパティスタたちはNAFTAが先住民族に対する「死刑宣告」であるとみなすようになった。NAFTAが施行された1994年1月1日、サパティスタ民族解放軍はメキシコに対して宣戦を布告した。



サパティスタ民族解放軍 

 サイト 自動的に日本語に翻訳される

ウィキペディアより



サパティスタ民族解放軍(-みんぞくかいほうぐん、Ejército Zapatista de Liberación Nacional、EZLN)は、メキシコで最も貧しい州とされるチアパス州を中心として活動するゲリラ組織である。単にサパティスタと呼ばれることも多い。サパティスタはチアパスの貧しい先住民族の農民達を主体に組織されているが、その支援者はメキシコ国内の都市部などにも幅広く存在し、またウェブサイトを介して世界的な支援を受けている。

サパティスタという名称は、メキシコ革命において農民解放運動を指揮したエミリアーノ・サパタにちなむもので(「サパタ主義(サパティスモ)」)、サパティスタ民族解放軍はこのサパタの思想を引き継いだ革命行動である。

 1994年1月1日、北米自由貿易協定(NAFTA)の発効日に、サパティスタ民族解放軍は、「NAFTAは貧しいチアパスの農民にとって死刑宣告に等しい」として、メキシコ南部のチアパス州ラカンドンにおいて武装蜂起した。

NAFTAによって貿易関税が消失し、アメリカ合衆国産の競争力の強いトウモロコシが流れ込むと、メキシコの農業が崩壊することや、農民のさらなる窮乏化が予測されたのである。

実際にメキシコでは、NAFTA発効後、多くの農民が自由競争に敗れて失業し、メキシコ市のスラムや北部国境のリオ・ブラーボ川を越えてアメリカ合衆国に流入した。

ラカンドンでは、木材のグローバル商業化や、石油やウランの発掘がもくろまれており、当地の先住民を一掃する大規模な強制排除計画が進みつつあった。

具体的には、白色警備隊と呼ばれるギャング組織が大規模農園主によって雇われ、暗躍し始めていた。

身に迫る脅威を前に、インディオたちはついに、500年の抑圧を経て立ち上がったのである。


これに対し、メキシコ政府は武力鎮圧で応じ、チアパス州のインディオ居住区を中心に空爆を行なったため、サパティスタ側に150人近い犠牲者が出た。

これを受けて、サパティスタ側は対話路線に転換したが、結果的にそれが奏功し、以後、メキシコ国内外から高い評価と支援を受けることになる。

サパティスタ民族解放軍は、先住民に対する構造的な差別を糾弾し、農地改革修正など政府の新自由主義政策に反対、農民の生活向上、民主化の推進を要求し、政府との交渉と中断を何度も繰り返しながらも、今日まで確実にその支持者を増やし続けている。

サパティスタ民族解放軍の実質的リーダーは、サパティスタ民族解放軍のスポークマンであり反乱軍の指揮も執るマルコス副司令官であるが、マルコスは例外的に非先住民族である。マルコスが反乱軍の指揮を執りながら司令官ではなく副司令官を名乗るのは、「真の司令官は人民である」との信念に基づく。


 サパティスタ運動の方法論や主張は、従来の左翼ゲリラと一線を画しているため世界的な注目を得ている。

サパティスタ運動は、最初のポストモダン的革命運動であると言われている[要出典]が、それはサパティスタ民族解放軍がインターネットを介して大々的に自らの主張を展開し、またそれによって世界的な支援を獲得したために、もはや武力などの実力を行使せずとも隠然たる影響力をメキシコ政府に対して持つに至ったというまさにIT時代の革命運動だったからである。

たとえば、マニュエル・カステルは、サパティスタを「初の国際ゲリラ」と称している[1]。この点において、コロンビア革命軍やIRA、日本の極左暴力集団に代表される、武力や脅迫といった一般人の犠牲者をも生むテロリズムに頼る前例とは異なった革新的手法と言える。


また、サパティスタ運動はメキシコからの独立や、政権の転覆と政権の奪取を目的とする反政府運動ではなく、世界的な新自由主義グローバリゼーションがもたらす構造的な搾取と差別に対して闘うことを目的とした運動であるという意味においても従来にない左翼ゲリラであった。


※ある意味、これも一種のクラウドファンディングだと思う。
 自分のプランを告知し、賛同者を募り、実現していく。
 通常は、何かことをなし、実績ある者だけが信頼され、融資を受けてきた。
 しかし、多くの革新的な事業は、実績のない者が発案し、苦労して実現されている。
 クラウドファンディングは、まだ実現されていない夢を実現するための手法となる。

マルコス副司令官

正体不明



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参考

・メキシコ麻薬戦争 ウィキペディア 2006年12月6日~現在
 
 2006年12月11日、新しく選ばれたフェリペ・カルデロン大統領が麻薬組織による暴力をそこで終わらせるために6,500人の連邦国軍をミチョアカン州に派遣。

 2003年から2009年の間に150,000のメキシコ軍兵が逃亡したと報告されている。換言すれば、毎年メキシコ軍の約1/8が逃亡している事になり[83]、これらの逃亡者は、政府から支給されたアメリカ製の自動小銃もいっしょに持ち去っている[84]。

 およそ78,000人の銃のディーラーがアメリカにはいるが[99]、銃が示す窃盗と個人的な売上高は、認可されたディーラーよりも、銃犯罪に使われた銃は密売人による物の方が大きい[92]。銃の密輸業者は強要させることも知られており[100]、半自動のアサルトライフルおよび他の銃は銃ショップもしくは銃ショー (en)で購入するために市民もしくはアメリカの住民に支払われ、それからカルテルの代理人に譲渡される[77] [101] [102][103] [104] [105]。この交換はen:Straw purchaseとして知られている[106]。


・正義と尊厳ある平和のための運動 ウィキペディア

 メキシコ麻薬戦争に対しての解決の方法を模索する中で生まれたメキシコ市民によるデモ運動である。

 詩人ハビエル・シシリア (Javier Sicilia) (彼は息子フアン・フランシスコの命をマフィアの手によって奪われた被害者の一人である)は、2011年4月26日メキシコ市民に呼びかけて、マフィアと政府の闘争が生み出す暴力に対してデモを行った。

行進が終わった時、国内の治安の悪さに対する国民的合意の設立を宣言し、『慰めの行進』と呼ばれた新たな運動の結果、同年6月10日に、チワワ州のシウダー・フアレスにて署名された。この運動はマフィアに対してメキシコ政府が行っている対策の見直しと、オープンな対話の実現を要求した。


 2011年3月28日、モレロス州の検察庁は7人の遺体の存在を確認した。その中には、詩人でジャーナリストでもあるハビエル・シシリアの息子、フアン・フランシスコ・シシリア=オルテガの遺体も確認された。

4月2日、ハビエル・シシリアは詩からの引退を宣言し、

同月26日、国民間での行進を呼びかけ、メキシコにはびこる暴力の中断を要求した。

同年5月5日には、彼を支持するグループは彼の呼びかけに応じて長距離の行進を始めた。

同年6月23日には、フェリペ・カルデロン大統領はこの訴えを受け入れ、チャプルテペック城にて平和についての対談が行われた。

サン・クリストバル・デ・ラス・カサスでは、サパティスタ民族解放軍(EZLN)のマルコス副司令官も暴力の中断に賛成し、声明文を発した。

・2014年メキシコ・イグアラ市学生集団失踪事件

 アヨツィナパ師範学校は、歴史的にも常に連邦政府および地方自治体の抑圧の対象となっていた。2011年12月12日ゲレロ州の州都チルパンシンゴにおいては、抗議デモ中に師範学校の学生と連邦警察及び州警察が衝突し、学生2名が命を落とした。

 国立人権委員会は、その12月12日の深刻な殺人事件に関して調査を行ったあと、勧告VG/2012を表明した。

デモに介入したゲレロ州政府の職員168人は、学生の集会をする自由の権利を侵害し、デモ隊を犯罪者に対するように扱った。

報告書では、デモに介入した警察官は武器を所持していたのに対し、参加者たちは武器を何も携帯していなかった、と詳細に述べられていた。

しかし、ホルヘ・アレクシス・ピノとガブリエル・エチェベリア=デ=ヘスースの死に関して、未だ職員への処罰は加えられていない。

2014年9月26日夜21時30分 イグアラ市警察が、3台のバスに乗って移動中のアヨツィナパ師範学校の学生らに向かって銃撃を始めた。

同年9月26日 学生達が抗議の記者会見を行っていた時、警察および見知らぬ複数の人物によって二回目の銃撃を受けたとされる。

43人の学生集団失踪事件

※ウィキペディアの記事では、43人の疾走の経緯が不明。


・メキシコ大学生43人不明事件遺体発見、市長の逮捕とその動機  2014年11月22日 NAVERまとめ より

(ポイント) 

 アヨツィナパ師範学校は生徒数約520人の男子校で、生徒の多くは貧しい農家の出身。ここでは農村部の小学校の教師を養成。

2014年9月26日 反汚職デモに参加した師範学校の学生43名を乗せていたバスが、地元警察に襲撃され、行方不明となる。

事件直後から地元の市町が逃亡。

同年11月5日イグアラ市長のホセ・ルイス・アバルカと妻が逮捕。

 市長夫婦は麻薬組織の構成員で、市長は毎月300万ペソ(約2600万円)を組織に上納していたという。

 参考 

 犯人は市長…メキシコの集団失踪事件がコワすぎる NAVERまとめ

 メキシコ学生失踪事件、襲撃指示容疑の前市長とその妻を拘束 AFP

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