2014年6月22日日曜日

たこくせきフェス2014 まとめ

2014年6月22日 短縮URL http://urx.nu/9z7N


たこくせきフェス2014

まとめ 会場 イラン料理 コロンビア舞踊 ボリビア舞踊 クルド料理 チラシ

YouTube:南アフリカの歌 コロンビア舞踊  ボリビア舞踊 アボリジニの楽器

イラン:ジャマルさん  レイハネ・ジャバリさん

公式サイト 



東京にくらす移民・難民が、生のことばと生きかたを表現する、そんなまつりです。これからの多文化社会に向けて、交流を深めるために、足をはこんでみませんか?

予定企画
★エスニック料理(販売) … イラン ネパール トルコ etc.
★展示 … パレスチナ 国内移民社会 etc.
★ダンス … ラテンアメリカ クルド  etc.
★音楽 … 難民の歌 バグパイプ サズ etc.
★難民・支援者の体験談

問い合わせ
たこくせきフェス2014実行委員会
takokuseki14@gmail.com
080-8844-7318



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2014年6月22日参加しました。

会場 

 



イラン料理 



イラン:ジャマルさん  レイハネ・ジャバリさん



コロンビア舞踊 



ボリビア舞踊 



クルド料理



YouTube:

南アフリカの歌 



コロンビア舞踊  

 


ボリビア舞踊 



アボリジニの楽器





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6月20日 世界難民の日

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 2000年12月4日、国連総会で、毎年6月20日を 「世界難民の日」(World Refugee Day)とする旨が決議されました。この日は、もともとOAU(アフリカ統一機構)難民条約の発効を記念する「アフリカ難民の日」(Africa Refugee Day)でしたが、改めて、難民の保護と援助に対する世界的な関心を高め、UNHCRをはじめとする国連機関やNGO(非政府組織)による活動に理解と支援を深める日にするため、制定されました。

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2014年6月20日

世界難民の日 母国の郷土料理ふるまう

世界難民の日 母国の郷土料理ふるまう

国連が定める6月20日の「世界難民の日」に合わせ、20日夜、日本に逃れてきている難民が母国の郷土料理をふるまう催しが東京都内で開かれました。

この催しは、身近な食を通じて難民への関心を持ってもらおうと大学生のグループが開きました。
会場では、政治的な迫害などから逃れて日本で暮らしているミャンマーやベトナムの難民などが、鶏肉のカレーやつぶした豆を使った揚げ物など母国の郷土料理をふるまい、訪れた人たちがお気に入りの料理に投票しました。
また、軍事政権による弾圧から逃れ、23年前から日本で暮らすミャンマー人の難民、チョウ・チョウ・ソ-さんが講演し、「日本に逃れてきた難民のほとんどは、日本語が話せなかったり、外国人という理由で家を借りることも難しかったりして、大変な生活を送っている」と現状を説明しました。UNHCR=国連難民高等弁務官事務所によりますと、紛争や迫害などが原因で難民となったり国の内外への避難を強いられたりしている人は、去年末の時点で5120万人となり、第2次世界大戦以降最も多くなっています。
日本でも去年、難民認定を申請した外国人が過去最多となりましたが、難民と認定された人は16年ぶりに1桁台にとどまりました。主催した大学生の1人、伊佐間梨華さんは「日本に難民が生活していることすら知らない人が多くいるので、もっと関心を持ってもらいたい」と話していました。



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6.20 「世界難民の日」、東京外大の取組み

サイト

6月チラシb

一つ目は、生協の大学食堂ミールでの「難民のふるさとの味」紹介の取組みです。その実現に取組んできた学生グループ「みんがおキッチン」の代表、野口鵬さんにお話をききました。

私たちみんがおキッチンは、在日難民の存在を、身近な「食」を通して知ってもらおうと活動しています。

今までみんがおキッチンとして勉強会を行ってきて、「難民」とひとことで言えども、一人ひとりには実に多様なバックグラウンドがあるということを、実感しています。その人たちのバックグラウンドや、各地域で起きている争いや問題を理解するだけでも、在日難民問題に対する小さなアクションを起こしていることになる、と、私は信じています。

美味しい異国の味に舌鼓を打ちつつ、日本に暮らす難民の方々へ、思いを馳せていただければと思っています。

取組み2 VOLASランチタイム学習会「日本に暮らす難民を知る!」

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 「難民月間」の企画として、5月29日にVOLASランチタイム学習会が開催されました。本学教員で、インドシナ難民の支援について詳しい長谷部美佳先生が世界の難民の状況と日本での受け入れの仕組みと現状について報告しました。この学習会には、大勢の学生が参加し、実りのある学習会となりました。

参加した学生の皆さんからの声です。

・日本が外国人嫌い(というか慣れていない)国だということは、前から聞いたことがあったが、ここまで受け入れ体制が整っていないとは…。

・難民という単語自体あまり耳慣れないが、今回の講座で少し詳しくなれた。

・もっと日本に住んでいる難民の方々の実情を知りたかった。日本政府の考えていることも知りたい。

・自分の身近なところに難民として来ている外国人の方はいないか?駅や街中ですれ違う人たちの中に、難民の方がいるかもしれないと思った。

・日本で暮らす難民のひとの生活や実態や、難民として暮らしている人に対するサポート等がどうなっているのか、知りたいと思いました。


取組み3 VOLASランチタイム学習会「ミャンマー出身のTINさんのお話を聞く会」

ミャンマー出身のTINさんの話を聞く会


「難民月間企画」の第2弾として、6月12日には、ミャンマー出身のTINさんにお越しいただき、お話を伺う会が開催されました。TINさんはミャンマー出身で、日本に暮らしている外国人です。ヤンゴン大の大学院生で講師もしていた頃、1988年の民主化デモに関わり、そのために軍隊に迫害され、身の危険を感じて1992年10月に日本にいらしたそうです。TINさんに昨年4月にも本学にお越しいただき民主化デモ当時のお話(昨年の報告)を伺いましたので、今回の講演は2度目となります。。
今回は、長谷部先生と対談形式で話していただきました。お話の要旨は、次のとおりです。
1992年来日しました。日本に来ていた友達の紹介で、大学の学食の洗い場で働きはじめました。外国人ばかり5人の職場でした。
時給750円で1日16時間働きました。健康保険に入ることができないため、風邪を引いた時はとても不安でした。銀行のカードも作れない暮らしでした。
日本語を学ぶのは電車の中。つり広告や駅の看板を見て勉強しました。自分はクリスチャンで英語は堪能です。聖書も日本語学習の重要なツールでした。
難民申請はしましたが、却下されました。でも、厨房で一生懸命働いて、今は焼き肉店の料理長として働いています。
参加した学生グループ「みんがおキッチン」の皆さんからの声です。
「日本に来たら全てゼロ」という言葉が一番、刺激的、印象的だった。全てゼロの状況から、料理長にたどり着くまでの約20年間、本当に長かったんだろうと思う。日本語で必死に言葉を紡ぐ姿から、日本に来てからの20年間の重みが伝わってくる気がした。
今まで知らなかったことを、たくさん知ることができた時間だった。自分でももっと調べてみたい。今日の情報量が多くて、そして考えていたよりずっと過酷で、どれだけ吸収できたかわからないけど、これから少しずつ自分の身に付いたことになってくれると嬉しい。自分のこととして思えるように、考え続けたい。
また、次のような感想も寄せられました。
自分のふるさとを離れて、言葉も習慣も違う国でゼロからスタートした苦労には、生の声として語られるこその重みを感じました。国の情勢など、個人の力ではどうにもできないところからも影響を受けてティンさんは、長い間さまざまな面で常に不安が付きまとう人生を送られてきたと思います。しかし、困難な状況でも「絶対に生き抜く、がんばり続ける」という強い意志を持ち続けていたということを、ティンさんの言葉の端々から強く感じました。これは、バックグラウンドには関係なく、人として私自身が大事にしていきたい気持ちでもあります。今回ティンさんのお話を聞いて、「難民」について知る以上に、ティンさんのお話からエネルギーをいただけた気がします。

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難民支援協会

サイト

Japan Association for Refugees (JAR)

Refugee Talk −難民を学ぶ夕べ− 世界難民の日特別版  (6/20)

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Refugee Talk −難民を学ぶ夕べ−では、毎月テーマを変えながら、
日本に逃れてきた難民が直面している問題や難民支援協会(JAR)の支援活動を様々な角度からご紹介し、
参加者の方々と「今できること」を考えます。

今回は、難民の日特別版として、難民の方が経営するレストランで開催します。
オーナーはミャンマー(ビルマ)出身の難民の方。「難民起業サポートファンド(ESPRE)」の支援を受けながら、レストランの経営をしています。

前半は、難民支援協会事務局次長で、難民起業サポートファンドの事務局長を務める吉山より、難民の方の自立に向けた就労支援、起業支援の取組を紹介します。
後半は、レストランのコース料理を楽しみながら、スタッフと参加者の方で交流を深める時間を持ちます。

ぜひ、難民の日に、難民と社会のつながりや難民のためにできることを一緒に考えてみませんか?

*ご参考:難民の自立支援-40人異国で再出発/毎日新聞



日時2014年6月20日(金)19:00-21:00
場所
難民起業家によるミャンマー料理店「Swe Myanmar」
JR/西武新宿線/東京メトロ東西線 高田馬場駅から徒歩約5分
*地図はこちらをご覧ください。
参加費
5,000円
*飲食代込
*イベントの収益は、難民支援活動に活用させていただきます
定員20人
主催認定NPO法人 難民支援協会
共催
公益社団法人難民起業サポートファンド
お申込
事前のお申込は締め切りました。直接会場までお越しください。
お問い合わせ
電話:070-5591-0222(担当:鶴木)

※難民レストラン!

 難民でなくても、外国からやってきて自国の料理を紹介してくれるレストランを知り、行きたい。

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2014年6月20日

ミャンマー難民は今 民主化運動リーダーを訪ねて




「最後のフロンティア」と脚光を浴びるミャンマー(旧ビルマ)。軍事政権の弾圧を逃れて来日したミャンマー難民は今、急速に民主化が進んでいるとされる母国をどんな思いで見つめ、自身の将来をどのように考えているのか。「リトルヤンゴン」とも呼ばれる東京・高田馬場に、民主化運動のリーダー2人を訪ねた。20日は世界難民の日-。

○愛する家族、揺れる思い タンスエさん 

 商店街の一角にあるミャンマー料理店「スィゥ・ミャンマー」。常連客ばかりではない。道行く日本人もふらりと立ち寄り、本場の味を楽しむ。「家族のために頑張るよ」。オーナーのタンスエさん(53)が力を込める。

 地質学者だった。民主化運動ではタイ国境に逃れる活動家を支援し、責任者も務めた。治安当局が自宅に踏み込む5日前、危険を察知してタイに出国し、1989年に来日。以来25年、デモや集会の先頭に立ち、97年に難民認定された。

 妻、高校2年の長女、小学4年の長男の4人家族。母国の変化を前に、家族そろっての帰国を望む。新たな国造りに役立ちたい。年金に加入しておらず、日本での将来に不安もある。母国を離れて以降、父親は何度も治安当局に拘束され、体調を崩して亡くなった。自責の念を抱え、再会できないままの母親の近くで暮らし、親孝行をしたい。

 ただ、多くの難民同様、子どもたちの将来を思い、帰国をためらう。日本生まれの子どもたちは日本での生活を望む。日本の学校に通い、友達も日本人。ミャンマー語は苦手で、親子の会話には日本語とミャンマー語が交ざり合う。日本文化で育ち、ミャンマーへの帰国は外国への移住のような感覚だ。将来は日本の大学への進学を希望する。

 アイデンティティーとともに気をもむのが、子どもたちの「無国籍」の境遇だ。日本での外国人登録は「ミャンマー」だが、ミャンマーでは未登録。「将来、どんな影響があるか分からない」と懸念する。支援団体「ビルマ市民フォーラム」によると、ミャンマーに帰国できないほか、国によっては渡航できなかったり、入国時に足止めされたりする。長期留学や結婚の際にも支障が出かねない。

 両親と離別し、家族のかけがえのなさを肌で感じているからこそ、子どもたちと一緒の生活を切望する。一方、信念を持って民主化運動に身を投じたからこそ、子どもたちにも自分の信じる道を進んでほしい。愛するがゆえ、思いは揺れる。

 「子どもたちには、日本とミャンマーの懸け橋になってほしい」。独り立ちしたころには、夫婦そろって帰国しているつもりだ。「仕事をしながら暮らすうちにミャンマーを気に入り、ずっと住んでくれるかもしれない。そうなったら、一番うれしいです」

○見えぬ動きこそ注視 チョウチョウソーさん 

 ミャンマーは変わったか。その問い掛けに、チョウチョウソーさん(51)は「自由にはなっている。でも、それは国際社会へのアピール」と言い切り、こう続けた。「私が、証拠ですよ」

 昨年7月、東京都内の在日ミャンマー大使館に足を運び、他の民主化運動のリーダーとともに一時帰国の短期ビザを申請した。だが、1年が経過する今も、自身とタンスエさんの2人はビザが発給されていない。理由は明かされず、問い合わせにも回答はない。

 母国では会計士だった。民主化運動の仲間が1人、2人と逮捕される中、身の危険を感じて1991年、タイ経由で日本に逃れた。来日後、世界26カ国の同胞に向けて雑誌を発行。軍事政権に名指しで批判され、97年に難民認定された。

 来日23年、ミャンマー料理店「ルビー」を経営する傍ら、帰国の日を思い描いてきた。民主化が進む今、新たな国造りに参加したいとの思いが募る。母国に帰るのになぜビザが必要なのかという歯がゆさを抑えつつ、まずは一時帰国して自分の目で変化を確認し、役に立てることを考えたい。

 だが、一時帰国を果たす同胞も多い中、自身の入り口は閉ざされている。「権利を使うかどうかは個人の判断。でも、機会は平等であるべきでしょう」。民主社会の大原則が通用せず、「民主化が進んでいる」との触れ込みと矛盾する。

 思い当たるのは、2週間に1度のミャンマーの新聞への寄稿だ。独裁の手口を記した。権力者による富の独占、民間団体などを隠れみのにした権力維持、メディアコントロール…。感情にまかせて批判するのではなく、世界各国の独裁体制を具体例として挙げながら、冷静に事実を伝えた。「善しあしを判断するのは読んだ人。自分の頭で考えてもらいたい」との思いからだ。

 官民を挙げて、ミャンマーへの経済進出に突き進む日本。民主化が順調に進んでいるという“誤解”を残念に思う。

 例えばメディア。ミャンマーの街には新聞や雑誌が並び、報道の自由が保障されているように見える。確かに自由に書くことはできる。ただ今年に入り、政権の意にそぐわない内容を書いたジャーナリストが次々と拘束されているという。一時帰国さえかなわない自身の姿が重なる。「自分の生活だけを考えるならば帰国しても問題ない。でも、社会のために生きようと思うなら、まだまだ厳しい」

 人々が知らないうちに、大きな問題ではないと思っているうちに、少しずつ社会を変え、気付いたときには後戻りできない状態にしてしまう。権力者の常とう手段だ。実態が見えないことは人々の猜疑(さいぎ)心や恐怖心をあおり、行動を抑制させることもある。「分かりやすい表面の経済的なことだけを見ていてはいけない。裏側で何が起きているのか。しっかりと目を向け、暗闇に光を当ててほしい。見えないことが一番怖いんです」。日本の現状への警鐘でもある。

 50代となり、心身が最も充実しているという今だからこそ、帰国のチャンスに恵まれず、悔しく思う。とはいえ、心は折れない。今はまだ帰る時期ではないと思い直し、人と会い、議論し、勉強を重ね、すべてを帰国後の準備と考える。「日本で学ぶことは、まだまだいっぱいある。日本はトレーニングクラブ。たくさん“練習”して、ビルマでの“試合”に備えます」

▼記者の視点:国際社会、身近にも 

 2人と初めて会ったのは2011年5月、JR高田馬場駅前だった。東日本大震災から2カ月、「故郷を失い、家族と引き裂かれるつらさがよく分かる」「困っている人を助けるのは当たり前」。約100人の在日ミャンマー人が被災地支援に行くと聞き、チャーターしたバスに同乗した。以来、彼らから多くを学んだ。

 個人では抗(あらが)えない大きな力に押しつぶされそうになる。彼らの姿から、絶望の意味を知った。知識人も多く、議論好き。自由、権利、義務、国家、憲法、権力、民主主義…。深い教養に支えられ、実体験に裏打ちされた持論に刺激を受けた。目先の利益ばかりを追求する愚かさと、理想や正論を堂々と語り、ひた向きに行動し続ける尊さを教わった。

 日本は海外の難民問題には積極的だが、保護を求めて来日する人々には冷たい。国際社会からは「難民鎖国」と批判され続けている。意気軒高に海を渡ることばかりが国際化ではない。私たちの身近なところにも国際社会は広がっている。まずは、彼らの声に耳を傾けることから始めたい。

◆ミャンマーの民主化 1988年の全国的な民主化運動を軍部が制圧して以降、軍事政権が権力を掌握していた。2011年に「民政移管」され、新政府は政治囚の釈放や検閲の廃止など民主化政策を実施。経済改革を図り、各国企業が進出している。一方、軍部に有利な憲法の規定に伴い、政府、議会ともに軍部が現在も実質的に支配し、政治に強い影響力を持つ構造が続いている。

【神奈川新聞】
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神奈川新聞
ミャンマー難民の14年間追う、土井監督の記録映画 




 ジャーナリストの土井敏邦監督(60)=横浜市神奈川区=が在日ミャンマー(ビルマ)難民の男性を14年間追ったドキュメンタリー映画「異国に生きる」が29日から、横浜ニューテアトル(横浜市中区)で上映される。生きる意義とは、幸せとは、家族とは、「国」を愛するとは-。男性の心の内を丹念に描くことで、普遍的なテーマを問い掛けている。

 主人公はチョウチョウソーさん(50)。親しみを込め、土井監督は「チョウさん」と呼ぶ。祖国の民主化運動に身を投じ、軍事政権の弾圧を逃れて1991年に来日した難民だ。

 土井監督がチョウさんと出会ったのは98年。ミャンマーでの大規模な民主化デモから10年、日本で闘い続ける青年たちがいると聞き、関心を持った。以来、妻のヌエヌエチョウさん(44)を呼び寄せ、民主化運動のリーダーとして活動する姿を撮り続けた。

 描かれるのは、チョウさんの生き方と、思慮に富んだ言葉の数々だ。

 2005年、父親と14年ぶりに再会するために訪れたタイでは、つかの間の親子水入らずをカメラに収めた。チョウさんは年老いた父親を気遣い、片時も離れなかった。“闘士”は一人の息子に戻っていた。

 「(今後、家族と会えなくなる)犠牲は覚悟している。ビルマの人々のために活動することは私が決めたこと。家族も誇りに思ってくれている」

 再会直後、チョウさんは自らに言い聞かせるように語る。祖国で家族と一緒に暮らしたいという願いと、祖国の民主化のために望郷の念を断ち切らなければならないという思い。沈思黙考する姿に葛藤がにじむ。

 「自分や家族のことだけを考えて生きることもできる。でも、私にとってとても大切なのは他人の痛みを感じ取ること。ビルマで暮らす同胞たちは自由も豊かさもない。私だけチャンスを独り占めできない」

 個人と社会の距離は近く、関係も深い。土井監督は「強制ではなく、自ら社会に役立ちたいと思い、生きる価値を見いだし、幸せに感じている」と話す。

 映画では、多くの在日ミャンマー人が東日本大震災の被災地支援に奔走する姿が描かれる。一方、ミャンマーで08年に起きた死者・行方不明者が13万人超とされるサイクロン被害に対し、都内で支援を訴える彼らの前を冷ややかに通り過ぎる人々の映像が流れる。

 「人は社会の中で生きている。自分のためだけに生きるのはつまらない。世界をもっと広くしないと」。若者の関心は半径10メートルともいわれる日本。彼我の差に向けるチョウさんの言葉は重い、と土井監督は言う。

 作品はまた、「愛国」の意味を問う。「在日ビルマ人が『祖国』というとき、それは民であり、民衆であり、同胞を意味する。決して国家ではない」と土井監督。翻って日本は戦前、愛国の名の下に多くの国民が犠牲となった。「そして今、政府は再び国家と民を重ね合わせ、愛すべき対象を民から国家にすり替えようと懸命だ」

 「日本人は物質的な豊かさばかりを求め、大事な何かを失った。どちらが本当に豊かなのか」と問い掛ける土井監督。「彼らを前に自問せざるを得ない。彼らは、私たちの映し鏡です」

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