たこくせきフェス2014
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イラン:ジャマルさん レイハネ・ジャバリさん
公式サイト
イラン ジャマルさん
【転載】
働いたら収容所 帰国したら拷問
謎のイラン人、ジャマルさんは難病で難民!!の巻
雨宮処凛(あめみやかりん) サイト「マガジン9」第299回 その3より その2 その1
90年。イランの独裁政治から逃れるために、一人のイラン人男性が日本にやってきてから24年。
イスラム独裁政権、難民申請を却下し続ける日本政府、そして最近では自宅の南京虫と闘うジャマルさんについての原稿も今回が最終回だ。
最終回では、ジャマルさんが今直面している「生活」の問題について、触れていきたい。
ジャマルさんの現在の身分は、「難民申請中の仮放免者」。滞在資格上は、働いてはいけないことになっている。が、「働くな」と言われても、「難民申請中の仮放免者」への社会保障的なものは皆無。ただ「働くことを禁止」しながら、1円のお金も保証しないなんて、「餓死しろ」「強制送還されて殺されてしまえ」と言っているに等しい。また、働いていることがバレたら収容所行き。入管収容所の劣悪な状況は、「その2」で触れた通りだ。
そんな中、ジャマルさんは生きていくためにこの国で「外国人労働者」として工場や建築現場などで働いてきた。
しかし、この国で「働く資格」のない外国人が働くということは、無権利な状態に常に晒されるということだ。実際、2011年から住み込みで働き始めた茨城県・鉾田市の農家で、ジャマルさんはひどい目に遭っている。
宿舎としてあてがわれた場所は、コンテナ。連日の過酷な重労働であばらを痛め、病院に通うハメにもなった。しかも、働き始めて2ヶ月後、ジャマルさんがいつも通りの時間に出勤したところ、「こんな時間に出てくるバカがどこにいる!」「もう来なくていい!」などと罵声を浴びせられ、いきなり解雇されてしまったのだ。
ちなみにジャマルさんが働いていた茨城県・鉾田市には外国人研修生・実習生が多く、紛争が絶えないという。ジャマルさんのいた農家も多くの外国人労働者を受け入れ、酷使していた。
この解雇に関して、「イラン労働者共産党員」であるジャマルさんが黙っているはずがない。加入していたフリーター労組を通じて団体交渉を申し入れ。相手側が団体交渉を拒否したため、争議に入り、また、東京都の労働委員会に不当労働行為を申し立てる。闘いの火ぶたはこうして切って落とされたわけだが、今年5月、この件に関してジャマルさんは「和解協定」を勝ち取った! 相手側が誠意をもって謝罪し、和解金を支払うことで合意したのだ。この一連の闘いでジャマルさんは、「難民申請中の仮放免者」という立場上、「働く資格」がなかったとしても、こうして労働組合に加入して、「和解」を勝ち取ることができるのだ、ということを証明してみせた。さすがである。イラン労働者共産党とフリーター労組だけは、敵に回さない方がいいようだ。
さて、そんな目出たい話はあるものの、働かないことには生きていけない。しかし、これまでの過酷な労働や長引く「難民認定されない」生活のストレスは、ジャマルさんの身体を蝕んでいた。しかも、最近わかったことなのだが、08年の時点から「QT延長症候群」という難病にかかっていることも判明。突然、脈が乱れて意識を失う発作が起きる病気で、発作が止まらない場合は死亡することもあるという。そんな病気があることを知りながら、ジャマルさんは今まで放置せざるを得ない状況に置かれていたのだ。
また、ごく最近の診断では、それに加えて十二指腸潰瘍、PTSD関連心臓神経症の疑いという結果も出た。
そんなこんなを受け、今年2月、ジャマルさんは支援者とともに生活保護を申請(この時点で病気のことはみんな知らなかったので、役所には話していない)。
しかし、そのわずか4日後、役所から届いたのは「却下通知」だった。却下理由は、外国人に対する生活保護の「準用」は、「適法に日本に滞在し、活動に制限を受けない永住・定住等の在留資格を有することを要件としているので」というもの。
立場上、働くことは禁止され、収入を得る手段がないのに、生活保護は受けられないという矛盾。というか、それ以前に、そもそも難民申請は権利であり、申請期間中もそれなりの待遇が保障されなければならないのだ。それなのに、難民条約を批准している日本はジャマルさんを「制度の谷間」に落としたまま、放置している。「就労禁止の義務」を負わせながら生活保護を利用させないなんて、みすみす「見殺し」にするようなものではないか。国際社会から「人権無視」と糾弾されてもおかしくないことなのだ。
さて、ここまでが、ジャマルさんを巡る状況である。
今、ジャマルさんは、支援者のカンパなどで、ギリギリの生活をなんとか維持している。健康状態も心配だ。難病なのだから、とにかく早く治療も受けてもらいたい。そして今のところ、「南京虫との闘い」にも終わりは見えていないようだ。
近々、ジャマルさんは再び生活保護の申請に行く予定である。私もできれば同行したいと思っている。
働いたら収容所。帰国したら拷問。それなのに、難民認定をしない日本政府。働いちゃダメと言いながら、一切の保障はしないこの国。
そんなのって、絶対に、おかしい。
ジャマルさんの状況に変化があったら、またこの連載で書きたいと思っている。
応援したい、ジャマルさんのことがいろいろ知りたい、という方は、以下のサイトをご覧頂きたい。
http://j-solidality.hatenablog.com/
※リンク先は、「j_solidalityの日記 ジャマルさんの生存権闘争を支える会」となっていた。
先入観はよくないと思うが、〇〇権とか、〇〇闘争という表現はどうかと思う。
失敗した学生運動や左翼系のグループをどうしてもイメージしてしまう。
右翼とか左翼とか、宗教も宗派も関係なく、難民をできるだけ援助することが日本の務めであり、平和外交の一環だと思う。永世中立国(実際、本当はどうかわからないけど)をうたったスイスのように赤十字の精神で困っている人たちを救いまくったらどうだろう。
また、カンパしたい、という方は、以下の口座まで。
【郵便振替】 00110-6-317603
口座名:フリーター全般労働組合
※通信欄に「ジャマル」と記入してください
ジャマルさんは現在、イランの状況を日本に伝える「イランラディカルニュース」の発行を準備中。完成したらぜひ、多くの人に読んでほしい。その情報などもサイトで。
また、「もうジャマルさんに早く会いたくて辛抱たまらん!」というアナタに朗報。6月22日、ジャマルさんは中野の「たこくせきフェス」に参加。イラン料理をふるまう予定。詳しくは、以下!
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第297回
働いたら収容所、帰国したら拷問〜〜謎のイラン人、ジャマルさんは難病で難民!! の巻(その2)
独裁政権を逃れて日本にやってきたジャマルさんは、今まで3度、「難民申請」をしている。しかし、日本政府はその3度の申請を、ことごとく却下している。出身国・イランに帰ってしまうと死が待っているというのに、長年暮らす日本で「難民」と認められずにいるジャマルさんは、あまりにも宙ぶらりんで無権利な状態に置かれている。
ちなみに、そもそも「難民」ってなに? という人もいると思うので、そこから説明しよう。
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のサイトによると、難民とは「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受けるおそれがあるために他国に逃れた」人々。
ちなみに日本は先進国の中でも「難民認定率」が極めて低く、たとえば2011年の認定率は0.3%。21人しか受け入れを認めていない。しかし、他の先進国を見てみると、2011年のアメリカ、カナダでの難民認定率は40%を超え、それぞれ1万人以上を新たに難民と認め、イギリス、ドイツ、フランス、オーストラリアでも、数千人を新たに難民と認めて受け入れている。
そんな日本はしかし、「難民条約」を批准している。難民条約を批准した国は、先ほどの難民の定義に当てはまる人を保護するという条約上の義務がある。が、日本の場合、その義務をほとんど放棄しているような状態なのだ。残念ながら、日本は「先進国でもっとも難民に冷たい国」なのである。
さて、そんな日本で、ジャマルさんの前にも「難民認定」は高い壁となって立ちはだかっている。
一度目に申請したのは、01年。が、申請はしたものの、1年間、なんの連絡もなく放置されたままだった。結局、1年後に審査官が通訳者を連れてやってきて、やっと事情を聞かれたものの、審査官が聞き取りのあとに読み上げた聴取内容は、ジャマルさんの発言と違う部分も多かった。
「それで、『こんなこと言ってない』って言っても、審査官は『何書けばいいかは俺が決める』って言うんです」
そうして02年末、入国管理局から「難民不認定」の通知を受ける。ジャマルさんは不服申し立てをするものの、03年にはその却下通知がくる。同時に知らされたのは、強制送還と強制収容の令状が発行されたということ。それからほどなくして、ジャマルさんは入管収容所に入れられてしまう。
この「収容所」がひどいところなのだが、それはまたあとで触れたい。
とにかく、収容されてしまったら、そのままでは強制送還されてしまう。イランに送還されてしまえば、待っているのは拷問と死だ。そんな時、ギリギリのタイミングで支援してくれる弁護士が見つかった。「強制送還されないためには、とにかくすぐに裁判を起こすしかない」とアドバイスをもらい、ジャマルさんは「難民不認定の取り消し」「強制送還の取り消し」「強制収容の取り消し」を求めて裁判を起こす。危機一髪のタイミングだった。
結局、04年4月には「難民の蓋然性が高い」という判定を受け、ジャマルさんは無条件で釈放される。収容期間は、実に5ヶ月ほど。
「最初は横浜の収容所で、1ヶ月もしないうちに茨城の牛久市にある収容所に移されました。800人くらいが入るところで、とにかくひどいところでした」
さて、そうしてなんとか釈放されたジャマルさんは、04年夏から、渋谷のUNHCR前で座り込みを始める。この時期、日本の難民受け入れ制度の落ち度や入管収容所の劣悪な環境に対して、クルド難民たちによる座り込みが行なわれており、それに合流したのだ。
しかし、その年の9月、座り込みは警察によって排除されてしまう。この混乱の中、ジャマルさんは「転び公妨」で逮捕されてしまう。起訴されたジャマルさんは、拘置所の独房で5ヶ月を過ごすハメになる。結果的に「有罪」となり、再び茨城の収容所へ。収容生活は1年間にわたって続いた。
そんな収容生活の中、ジャマルさんは体調を崩し、多額の保釈金を払うことでやっと「仮放免」という形で釈放される。
04年、逮捕された時にもジャマルさんは難民申請をしている。しかし、却下。
そうして2010年3月、またしてもジャマルさんは入管収容所に収容されてしまう。この時は、入管に出頭したらそのまま収容されてしまうという意味不明な展開だった。ちなみに「難民認定はされておらず、仮放免中」のジャマルさんは、2ヶ月に一度、入国管理局に出頭し、「仮放免の延長」の手続きをしなければならないという。また、同時に「旅行許可証」も貰う。「え、呑気に旅行?」と思うなかれ。ジャマルさんは、今住んでいる東京から、例えば隣の神奈川県に行く予定がある場合、それを事前に入国管理局に届けなくてはいけないのだ。届けていない場合、「東京から神奈川に行った」ことが発覚すれば、そのまま強制収容されてしまうおそれがある。「ちょっとした移動」が、即収容所行きとなってしまう生活なのだ。
さて、それでは「収容所」とはどんなところなのか?
ジャマルさんと会うまで、私はこの国に「入管収容所」というものがいくつもあり、そこに何百人もの外国人が収容されているという事実など、まったくと言っていいほど知らなかった。
ジャマルさんは言う。
「入管収容所は、とにかくひどいところです。僕は転び公妨で逮捕された時に拘置所も経験していますが、拘置所も入管収容所も同じようなものです」
ちなみに入管収容所は、「在留資格のない外国人が、帰国するまでの間、もしくは在留資格を得るまでの間に一時的に滞在する施設」。それ以上でも以下でもない。しかし、それが「拘置所」と同レベルとはどういうことなのだろう?
「僕は品川、牛久、横浜の3つの収容所を経験しています。最初に入れられたのは、横浜の石川町にあった入管収容所です。ここは小さなところで、建物の8階にありました。収容されていたのは70人ほど。10畳の部屋に10〜12人が入れられて、1日中、部屋から外には出られません。外部へ電話することもできなければ、診療室もありませんでした」
この収容所にいる間、ジャマルさんは耳の内出血により熱を出す。痛みもひどかったものの、入管職員に言っても市販の風邪薬を渡されるだけ。収容所の中では体調が悪くても職員に怯えて何も言えずに耐える外国人も多く、ジャマルさんは「希望する全員の受診」を求めて収容所内でハンストをし、「全員受診」の約束をとりつけた。しかし、やっと病院に行けるという時に、ジャマルさんは屈辱的な扱いを受ける。商店街の真ん中にあるクリニックまでの移動中、手錠をかけられたのだ。診察中も手錠は外されなかったという。ジャマルさんはこの時のことを「恥ずかしかった」と振り返る。
その後、ジャマルさんは茨城県牛久の収容所に移った。ここは800人くらい収容できる施設だが、今年3月、ここに収容されていたイラン人とカメルーン人が相次いで亡くなったことが報じられている。詳しいことは明らかにされていない。
また、入管収容所内で起きたことではないが、2010年にはガーナ人の男性が日本からの強制送還中に離陸前の飛行機内で死亡するという事件も起きている。入管によると、男性が暴れたため、職員が「制止」したということだが、タオルを口でふさがれ、座席で前かがみに押さえられた上、両手首も固定されていたという。
この事件では日本人の妻が不起訴処分となった入管職員9人の処分を不服として審査を申し立てている。
これらの「入管」周辺の事実を少し知っただけでも、「外国人」に対するこの国の扱いがわかるのではないだろうか。
さて、次回はジャマルさんの現在の生活に迫っていきたいが、この原稿を書いている真っ最中、ジャマルさんを一番悩ませているのは、入管でもイスラム独裁政権でもなく、南京虫である。現在、知人宅に住んでいるのだが、そこに南京虫が大量発生しているらしいのだ。ジャマルさんから届くメールには、「今、身体中がかゆくて目が覚めました」「10匹をやっつけました」「血を吸って2センチくらいになっている!」などと臨場感溢れる「南京虫との闘い」が実況中継されている。
そうしてとうとう本日、みんなで大掃除をして南京虫の巣を発見!!
「大革命です!」
ジャマルさんからのメールには、そんな言葉が躍っていた。
ということで、次回はジャマルさん最終回。
巣を発見したところで、ジャマルさんは南京虫との闘いに終止符を打てるのか? 難民認定は? そしてジャマルさんの「難病」とは? 今後の生活の見通しは?
すべてはまだ進行形である。
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第296回
働いたら収容所、帰国したら拷問〜〜謎のイラン人、ジャマルさんは難病で難民!! の巻(その1)
1993年、あまり頭のよくない一人の18歳女子が、北海道から上京した。彼女が上京した理由は、「ヴィジュアル系バンドのライブにとにかくたくさん行きたい!」という下心のみ。あまりにもバカな理由だが、その18歳女子とは何を隠そう、およそ20年前の私である。
93年と言えば、「イカ天」「ホコ天」という言葉が口に出すのも恥ずかしい言葉になり始めていた頃。しかし、まだギリギリ「バンドブーム」なるものが続いてもいた頃。お金はないけど時間だけは膨大にあった私が上京してまず向かった先は、「バンドブームの聖地」と言われた原宿のホコ天だった。
しかし、「素敵なバンドがたくさんいるかも☆」という私の期待はホコ天に一歩足を踏み入れた瞬間、打ち砕かれた。目の前にいるのは、どこの国なのかわからないものの、ひたすらに濃い顔の人、人、人。しかも、全員が男。そんな異国の男たちが、地平線まで続きかねない勢いでひしめいている。その間で、居心地悪そうに演奏するバンドが数組。
こんなの、私の知ってる「ホコ天」じゃない!
18歳の私は心の底から憤慨した。思えば、それが私と「イラン人」との出会いだった。
あれから、20年。気がつけば、上京当時あれほど東京にいたイラン人は消えていた。
なぜ、90年代前半、東京にたくさんのイラン人がいたのだろう。18歳だった私は、「東京ってイラン人がたくさんいるとこなんだな」くらいにしか思ってなかった。そして彼らがこつ然と消えたことに対しても、深く考えたことなどなかった。
そんな私の前に、最近、一人のイラン人男性がものすごい存在感をもって現れた。名前はジャマルさん。45歳。90年に来日し、もう日本での生活は24年になる。そんなジャマルさんがなぜ日本に来たかと言うと、「イランの独裁政治」を逃れてのことだという。
88年、イラン・イラク戦争が終わり、イランに戦争から大量の若者が帰還したところから話は始まる。いや、話はそのもっと前、79年に起きた「イラン革命」にまで遡る。独裁政権と、抑圧。抵抗する人々への凄まじい弾圧と、迫害。
そんなものを逃れて日本にやってきたジャマルさんは、イラン政府にとっては「反政府勢力」となるので、帰国したら拷問と死が待っている。しかし、日本政府に難民認定をしても、まったく認められない。身分的には「難民申請中の仮放免者」なので、制度上、働いてしまうと「不法就労」ということになり、捕まって収容所にブチ込まれる。が、生活費を稼ぐ手段もないのに、生活保護も受けられない。支援者とともに申請に行っても、却下されてしまうのだ。
今まで、様々な「制度の狭間に落ちてしまった人」を見てきた。
しかし、ジャマルさんは、その中でもトップクラスである。本人は全然嬉しくないだろうが、私の中でナンバーワンに「大変な人」だ。しかも最近、難病であることが発覚。保険証もなく、経済的な理由もあって、病院に行けない生活が長く続いていた。とにかく、いちいち大変すぎるのだ。
ということで、「難病で難民(不認定)」のジャマルさんに話を聞いた。
ジャマルさんと出会ったのは、数年前の「自由と生存のメーデー」か「反戦と抵抗のフェスタ」でのことだと思う。
表参道のデモで、拡声器片手に「生きさせろ!」と叫んでいた私に、突然、デモに参加していた一人の外国人がすごい剣幕でつっかかってきた。
「なぜ、あなたは『生きさせろ!』と言うのか!」
そう声を荒らげる人がジャマルさんという名前で、彼がイラン人でいろいろ大変だということはうっすらと知っていた。当時から、フリーター労組の組合員でもあったと思う。が、「生きさせろ」という言葉に怒るイラン人、というのは、私にとってはレベルが高すぎた。一言で言うと、理解不能。「生きさせろ」というのは、宗教的に彼の怒りに触れるものがあるのだろうか? イラン人である彼にとって、「平和」な日本で「生きさせろ」なんてデモしている私たちの姿に対する深い苛立ちなどがあるのだろうか? コーラーだった私は、ガチで正面から文句をつけてくるイラン人に正直、ビビった。
なんと答えていいのかわからずにあたふたしていると、ジャマルさんは一言、言った。「『生きさせろ!』じゃなく、『人間らしく生きさせろ!』って言えばいいじゃないですか!」
それを聞いた瞬間、脳を脱臼しそうになった。そこら辺の、真面目な労働組合のオッサンが言いそうな台詞じゃないか。何を私は「イスラム教的にどうなのか」などと深読みしていたのだろう。よくわかんないけど、この人は真面目でいい人なのだ。私の中で、ジャマルさんはそう認識された。
そんなジャマルさんは、12歳の時、「イラン革命」を経験している。
民衆が銃で武装し、政府は戦車を出す。そんな光景が、少年だったジャマルさんの目の前にあった。
そんな79年のイラン革命のあとに待っていたのは、恐ろしいほどの独裁政治だったという。
革命前まで、イランの女性たちには、スカーフの着用は義務づけられていなかった。ミニスカートで街を歩く女性もいたという。革命前のイランには、女性たちがそれまで運動の中で勝ち取ってきた様々な「権利」と「自由」があったのだ。
しかし、イラン革命の後に待っていたのは暗黒の世界だった。
ジャマルさんは言う。
「80年代のイランは凄まじい状況で、街を歩くのも怖いくらいでした。女性にスカーフの着用が強制され、かぶっていない女性がいると、バイクに乗ったヒズボラ(イスラム急進派組織)の連中が顔に化学薬品をかける。刑務所にブチ込んでレイプして、石投げ処刑をする。あらゆる凄まじいことが行なわれていました」
また、女の子は9歳でも結婚できるようになるなど、「女性の人権」を巡る状況は劣悪になっていくばかり。
そんなイスラム独裁政権に疑問を持ったジャマルさんは、高校生の時点で「イスラム教を捨てた」。しかし、イスラムの世界では、イスラム教を捨てた人間は殺害対象となるので友達にもそれを明かすことはなかったという。
同じ頃、イランは戦争のただ中にあった。イラン革命翌年の80年に始まったイラン・イラク戦争は、8年間にわたって続いた。
「どうしようもない戦争でした。その戦争が88年にやっと終わって、戦場からたくさんの若者たちが帰ってきました。そうして、ひどい独裁体制で、一切の自由も人権もないイランから、若者たちが逃げ出すようになったんです。それまで国外に出ることを厳しく抑えていたのに、抵抗が強まって、どんどん若者が出ていった。イラン政府もお手上げ状態になってしまった。そうして多くのイラン人がイランから逃げ出しました。今もイラン難民は世界中にいます」
そうして90年、ジャマルさんも独裁体制のイランから逃げ出す。行き先は、日本。なぜ、日本だったのか。
「理由は簡単で、当時の日本はビザが必要なかったからです。直接成田空港に着けば、入ることができた。それまではイラン難民はヨーロッパやアメリカに流れていましたが、そういう理由からどっと日本に流れてきた。3〜4年の間に、4〜5万人のイラン人が日本に入ってきました」
冒頭で書いた、「ホコ天にいた大量のイラン人」の光景が、私の中でまったく違った意味合いを持つものになった。あの人たちが、独裁政権から逃れて日本に来ていたなんて、当時の私は思いもしなかった。ちなみにイラン人が「ビザなし入国」できたのは92年まで。それ以降はビザが必要となった。
そうして日本にやってきたジャマルさんは、先に日本に来ていた知り合いのツテを辿り、働き始める。建築など、今まで様々な仕事をしてきた。90年と言えば、時代はバブル。人手不足から外国人労働者を受け入れる状況があり、働く場には困らなかったという。また、「不法滞在」や「不法就労」といったことが問われることもなかったというから、何か「時代の違い」をひしひしと感じる。ちなみに、当時の日給は、例えば工場だと1万円〜1万4000円。今の倍近い額だ。
しかし、ジャマルさんの目的は「日本で働くこと」ではない。独裁体制のイランから自分だけ逃げ出してOK、といいうことではない。そもそも、イランの独裁体制に疑問を持ち、政治的な活動をしている人たちにはパスポートが発行されないという現実があった。逃げられた人は、運が良かったのだ。そんな政治体制の中で、イラン政府に抵抗する人々は刑務所にブチ込まれ、拷問され、多くの人が命を失っていた。うまく海外に逃げられても、国外で400〜500人もが暗殺されていた。
「イランを、自由で平等な社会にしたい」
そんな思いを持つジャマルさんは、日本にいるイラン人たちとの繋がりを探っていく。そうして反イラン政府運動をしている人たちと繋がり、92年、イラン労働者共産党の党員となる。ちなみにイラン労働者共産党の活動拠点はヨーロッパ。イランでは、共産主義者も殺害対象となるためだ。そんな状況や、女性や子どもの人権が侵害され、処刑が続くイランの現状を日本の人に知ってもらうため、パンフレットを作ったりと、ジャマルさんはさまざまな活動を始めた。
しかし、90年代なかばになると、入管当局の摘発が始まり、不法就労助長罪が制定され、働くことは困難となる。また、イラン人コミュニティでも大量摘発があり、ジャマルさんとともに活動していた人たちも強制送還されてしまう。
「反政府勢力」を大量に処刑してきたイランへの帰国は、ジャマルさんにとって「死」を意味する。
一体、ジャマルさんはどうなってしまうのか?
以下、次号。
ジャマルさんと
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画像は、「イラン・ラディカル・ニュース」より
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雨宮処凛(あめみやかりん)
公式ページあまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ 「雨宮日記」
「THE BIG ISSUE」にて、『世界の当事者になる』を連載中!
ビッグイシューは面白いビジネスモデルだと思う。
でも、本当に貧困から抜け出せるのだろうか?
この売り子たちは継続できるのだろうか?
私達が模索するのは新しい生き方、そして自身の生存を肯定する言葉だ! 新自由主義下で進行する世界規模の棄民政策を検証。世界を丸ごと作り替える想像力に溢れた文化を創造する、プレカリアート運動の現場に迫る!
貧乏人は同情される対象などではなく、世界を変える主体だ!
労働/生存運動といわれるプレカリアート運動を、「文化運動」という視点から捉え返し、
「世界規模の貧乏ゆすり」を検証する、活動家・雨宮処凛の集大成的な一冊。
街頭に突如出現するフラッシュモブ、キャバクラユニオンの「集団 芸術」のような労働争議、国境を超えたサウンドデモ、派遣村。
プレカリアートが、この国の風景を変えるのだ
※貧乏ゆすり! ゆすり、たかりの類かな。奪い合いでなく、地球に共生し、資源を分かち合い、環境を永続的に整える生き方をしたい。
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