SUNDAY BHAJAN サンデー・パジャン
毎週日曜日
10:30 ~ 1:30
イスコン・ニューガヤ・ジャパン にて
(都営新宿線「船堀」南口から徒歩1分)
参加無料
★★★
インドのオルガン、ハーモニウムが奏でる数々の美しいメロディに
ムリダンガというドラムが、時に優しく、時に激しく、なんともいえないノリノリのリズムを刻み
カラタの小さな音がチーンチーンと心地よく響く
しっとりと、甘く、でも力強く、唱える言葉は
ハレー・クリシュナ
ハーレークリシュナ ハレークリシュナクリシュナ クリシュナ ハレー ハレー
ハーレー ラーマー ハーレー ラーマー
ラーマ ラーマ ハーレー ハーレー
これをずっと繰り返し歌います。
YouTube
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再び演奏が始まり、「ハーレー・クリシュナ」を歌い、踊ります。
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この後、無料でカレーが参加者にふるまわれたそうです。
友人の写真より
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ISKCONとは?
サイトよりISKCONとは、INTERNATIONAL SOCIETY FOR KRISHNA CONSCIOUSNESS の略で、 5000年前にインドで語継がれてきた経典バガバットギータ、 そしてシュリマド・バガバータムの教えを宗派を超えて実践する団体です。
インドの地に5000年前に降誕した主クリシュナ、そして 500年前に降誕した主チャイタンニャの普遍的な教えを 現代の人に届けることを目的としています。
ISKCONの支部は世界中にありますが、 ここ日本ではISKCON NEW GAYA JAPAN として東京の寺院を拠点として 活動しています。
バガバットギータ
クリシュナ
サイトクリシュナ自身は語っています。
「宗教(ダルマ)が正しく実践されなくなったとき、
反宗教的な風潮が世にはびこったとき、
おおバラタ王の子孫よ、
私はいつどこへでも現れる。」
(『バガバットギータ』第4章7節)
神の名前、姿、活動は無限にあります。
人間、動物、精神界の魂、その他無限に存在する魂すべてに
その教えは普遍的であり、時代、宗教、宗派を超えたものです。
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マインドと魂
本来の自分(魂)とは別のものです。
マインドとは、考える、感じる、意思する、など、
普段の思考のことを指します。
それは、生まれ育った環境
(両親の価値観や教育、文化、宗教など)
の影響を受けています。
一方魂は自分の本質の部分、
つまり永遠で知識と喜びに満ちた性質を持っています。
たしか、OSHOがマインドと魂について語っていた。
「おしょう マインドと魂」と検索してみると、こんな記事を見つけた。
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「魂の目覚め~ツインソウルと出会って ♪魂香るmimiのブログ♪」 アメブロ 引用
マスターの周りに自然に形成される探求者たちのコミュニティーは、ユニークな個人それぞれが自分自身の内なる光を見出すのを支えてくれるエネルギーフィールドになります。いったんその光が見つかったら、外側のマスターは触媒、内なるものの目覚めを喚起する仕掛けにすぎなかったことを弟子は理解するようになります。 マインドを超えると、本来備わっている覚醒、外側からあなたに与えられるものではなく、概念ではない覚醒がある。そして、現在に至るまで脳の中に覚醒に対応する中枢を発見したと言う実験はない。瞑想のすべての働きは、「マインド」であるものすべてをあなたに気付かせて、それへの自己同化を断ち切らせることだ。このまさに分離こそ、人間に起こりうるもっとも偉大な革命だ。
自由ほど、自らの運命のマスターであることほど、貴重な至福はない。
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マインドは環境によって、変化させられる。
嬉しかったり、ムカついたり色々と。
アウシュヴィッツに収容された精神科医フランクルが「夜と霧」のなかで、「精神の自由」について書いている。
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フランクル「夜と霧」より
長らく収容所に入れられている人間の典型的な特徴を心理学の観点から記述し、精神病理学の立場で解明しようとするこの試みは、
人間の魂は結局、環境によっていやおうなく規定される、
たとえば強制収容所の心理学なら、収容所生活が特異な社会環境として人間の行動を強制的な型にはめる、
との印象をあたえるかもしれない。
しかし、これには異議がありうる。反問もありうる。
では、人間の自由はどこにあるのだ、
あたえられた環境条件にたいしてどうふるまうかという、
精神の自由はないのか、と。
人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応するとき、
ほんとうにこの強いられたあり方の影響をまぬがれることはできないか、
このような影響に屈するしかないのか、
収容所を支配していた生存「状況では、ほかにどうしようもなかったのか」と。
こうした疑問にたいしては、経験をふまえ、また理論にてらして答える用意がある。
経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。
その例ならいくらでもある。
感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、
最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった
英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。
一見どうにもならない極限状態でも、やはりそういったことはあったのだ。
収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。
そんな人は、たとえひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。
つまり、人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。
典型定期な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。
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いかに生きるか。
環境に反応せず、自分自身で、自分の感情と行動を決める自由がいつでもある。
しかし、自由に決めることができるのは、そういう才能がある人だけと思い込む人もいる。
権威が正しいかどうか、自分自身で判断せず、盲随したときの悲劇がたくさんあるのに。
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シュリマド・バガバータム
「バーガヴァタム」で検索
・『シュリーマド・バーガヴァタム』・序章 ブログ
⇒サイトが新しくなってました 「クリシュナに辿りつく道」 > シュリーマド・マガーヴァタム
・シュリーマド・バーガヴァタム ブログ 「茨城県つくば市のシヴァナンダヨガ・インストラクター、ラリータンビカ千鶴子Lalitambika's Sivananda Yoga」 より
この聖典を理解したり、実践できる人々は少ないようです。敬愛するヴァガヴァン・サイババは「『シュリーマド・バーガヴァタム』を理解し実践するには、『悪い仲間を避けること』、『善い仲間を求めること』、『常に善い行いをすること』、『永遠と束の間のものを識別すること』の4つの資格が必要。」とおっしゃっています。
聖賢ヴィヤーサ 著
天界の聖者ナーラダが苦しむ聖賢ヴィヤーサンに言った。
「バガヴァン(神)とバクタ(帰依者)の信愛の物語である『シュリーマド・バーガヴァタム』を書きあげなさい。」
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