2015年2月10日火曜日

G20 実体経済への金融緩和の影響

2015年2月10日 G20 実体経済への金融緩和の影響 注視 NHKニュースより






 まさにこれを奪わんと欲すれば、かならずしばらくこれを与えよ。

恐慌前夜。

恐慌後、暴落した株を誰が持つようになったのか?

日本のバブルの時もそうだった。

エンパイアステートビルが一時日本人に所有されていたというのは本当です。
1991年に実業家の横井英樹氏が買収しています。
ただし新聞ネタになって米国人から非難されたのは、1989年の三菱地所によるロックフェラーセンター買収の方です。
当時の、日本脅威論の代表例とされています。





 G20、主要20か国の財務相・中央銀行総裁会議が9日、トルコで開幕し、各国の金融緩和が実体経済に与える影響や先行きに不透明感が強まっているユーロ圏の動向など、世界経済の現状と先行きを巡って議論が交わされました。

 主な先進国と新興国によるG20は、日本から麻生副総理兼財務大臣と日銀の黒田総裁が出席して9日、トルコのイスタンブールで開幕しました。
初日は、世界経済の現状と先行きをテーマに議論が交わされ、ヨーロッパや新興国などでの金融緩和が実体経済に与える影響を各国が注意深く見ていくことを確認しました。
また、財政緊縮策の見直しなどを掲げるギリシャの新政権の発足で、先行きに不透明感が強まっているユーロ圏の動向などについても意見が交わされました。
一方、麻生副総理は、消費増税の影響で弱さがみられる景気を下支えするため、3兆5000億円規模の経済対策を実施する一方、消費税率の10%への引き上げを延期したことや、財政健全化に向けてことし夏までに具体的な計画をまとめることなどを説明しました。
初日の会議のあと麻生副総理は記者団に対し、「イスラム国」による日本人殺害事件などを受けたテロ資金対策について「各国のテロ資金対策を引き続き強化していく必要があることを最初に話した」と述べました。
テロ資金対策については10日に開かれる2日目の会議で詳しく議論される予定で、各国が足並みをそろえて実効性のある内容を打ち出せるかが注目されます。

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「老子」を読んでいますと、ところどころ引っかかる箇所に出会うことは確かです。基本は常に1章2章で、道<TAO>の働きとそれを現実に人々が暮らす中に生かすために聖人のあり様ということを述べているわけですが、本来「無為」であるはずのその主張に作為的なもの言いが混ざっているように思われるのです。

 たとえば次のような箇所――。

将(まさ)にこれを歙(ちぢ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張れ。

将にこれを弱くせんと欲すれば、必ず固くこれを強くせよ。

将にこれを廃せんと欲すれば、必ず固くこれを興(おこ)せ。

将にこれを奪わんと欲すれば、必ず固くこれを与えよ。是を微明という。

柔弱は剛強に勝つ。

魚は淵より脱すべからず、国の利器は以て人に示すべからず。


(老子・36章)



「相手を縮みあがらせようと思えば、まず相手に虚勢を張らせる。

弱めようと思うならばまず強くさせる。

廃れさせようと思ったらまず盛んにさせておく。

奪おうと思うならばまず与える」

と述べているのですが、

確かにこれは「柔弱は剛強に勝つ」という原理を踏んだものといえるでしょう。

ただ、あまりに作為的であって、要は相手を叩き潰すために勢いづかせておいて後でギャフンと言わせてやろうという腹です。

相手に与えるのも後から二倍三倍にして奪い返そうという目論見があるからで、非常にしたたかな駆け引きと言えるでしょう。

もっといえば権謀術策とも言えるわけで、どうも老子の基本的な思想にそぐわない。あまりに小賢しいという印象を受けるのであります。

 そうしたことから、この章は老子によるものではないとする説もあります。

後から誰かが加筆したとか、何かが紛れ込んだとかいろいろ言われているようです。

しかしながら、ここまで極端ではないにしろ「老子」の中には他にも作為的・戦略的な臭いを感じさせる箇所は所どころあります。

そうしてみると、やはり老子が言ったものかも知れないと思われるのです。

 そうしますと気になるのは「微明」という言葉です。

第六講でも説明したように「小を見るを明と曰い」(老子・52章)

「自らを知る者は明なり」(老子・33章)とあり、

老子における「明」というのは道につながる絶対知を意味する大切なキーワードです。

ただ、ここではその明に「微」が付いて、「わずかに明である」というふうに表現されているわけです。このあたりが、まさに微妙なのであります。


 つまり、ここで述べていることは道の働きに則ったものではありますが、それを作為的に考えて行なうのは本来の聖人の「無為」とは明らかに違う道筋であるということを充分承知のうえで老子は語ったと思われるのです。

おそらく何かのシュチエーションがあったのでしょう。

その部分は省かれているのでわかりませんが、とりあえずその国を強くしなければならない現実的な必要性に迫られていたのだと思われます。

あくまでも戦略的に授けた。ただし、それは本来の聖人による政治とは違うものですから悪用される危険もあります。

そこで「魚は淵より脱すべからず、国の利器は以て人に示すべからず」と、つまり、この秘策はむやみ他人にもらしてはならないとクギを刺しているのであります。


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