2012年10月20日土曜日

メモ:東京のリトル・ヤンゴン、高田馬場

2012年10月20日

宝の馬場、この誤入力いいなぁ。

バカラの馬場、お金をすってオケラの馬場。

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東京のリトル・ヤンゴン、高田馬場

民主化への弾圧を逃れた難民が起業家として活躍

2012年6月20日(水)
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 日本企業の進出が連日、新聞紙面を賑わすミャンマー最大の都市、ヤンゴン。東京のリトル・ヤンゴンと呼ばれるのが新宿区にある高田馬場である。高田馬場駅周辺にはミャンマー料理店をはじめ、食材・雑貨店、美容室など同国人が経営する店舗が約20店もある。高田馬場だけで約500人、周辺の下落合、豊島区高田なども加えると、1000人近くのミャンマー人がこの界隈に住んでいる。彼らの多くは旧軍事政権による迫害を恐れ、本国を逃れてきた難民である。
 ミャンマー人の店は高田馬場駅前の早稲田通り沿いと、そこから少し入った小さな路地に集中している。駅前にある11階建ての黒いビル「タックイレブン高田馬場」に入ってみた。1階にまずミャンマー料理店がある。エレベーターで上階に行くと、5階、7階、8階、9階、10階にミャンマー系とおぼしき店舗がいくつもあった。ドアを閉ざした店もあったため、正確には分からないが、食材・雑貨、旅行、貿易関係などの店舗・オフィスが10近くある。まさにミャンマービルだ。
 早稲田通りから北側に伸びる小さな通りに、ミャンマー料理店の「ルビー」がある。チェッターヒン(鶏とジャガイモの煮込み)やトーフトウ(豆腐の和え物)など本場のビルマ料理がメニューに並ぶ。この店を経営するのはミャンマー難民のチョー・チョ―・ソーさん(49歳)だ。ソーさんは自分の国をビルマと呼ぶ。ミャンマーは1989年に軍事政権が国名を変えるまではビルマという名称だった。ソーさんの心の中では祖国の名前は今でもビルマなのだ。
チョー・チョー・ソーさん(左)とシャン族の山田さん
 ソーさんによると、高田馬場にミャンマー人が多いのは、(1)JR山手線の沿線で交通の便が良い、(2)家賃が安く、外国人にも部屋を貸してくれる家主がいる――からだという。これは新華僑が池袋、韓国人ニューカマーが新大久保に住むのとほぼ同じ理由だ。同じ山手線の沿線でも、池袋は中国人、高田馬場はミャンマー人、新大久保は韓国人と住み分けが行われている。

民主化への弾圧を逃れるため母国を離れる

 ソーさんが日本に来たのは1991年。本国ではヤンゴン経済大学を卒業し、会計士の仕事をしていた。1988年の民主化運動に参加。軍部によってデモが弾圧された。身の危険を感じたソーさんはタイを経由して日本に逃れてきた。
 来日後は東京の建築現場や千葉県の電気工事店で働き、生活費を稼いだ。日本語が分からないため、工事現場ではパイプの置き場所を間違えて怒鳴られたこともあるという。1996年、日本政府に難民認定を申請した。日本は簡単に難民認定が出る国ではない。不認定になって強制送還されたら、どうしようと心配だったが、幸い1998年に認定された。翌年、本国から妻を呼び寄せ、ようやく家族一緒に暮らす毎日が始まった。
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東京のリトル・ヤンゴン、高田馬場

民主化への弾圧を逃れた難民が起業家として活躍

2012年6月20日(水)
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 ルビーを開店したのは2002年。店を経営する傍ら、日本でも民主化運動を続ける。現在はNHKのビルマ語放送のアナウンサーも務めている。2011年の東日本大震災の際はミャンマー難民を集め、被災地に炊き出しに行った。「自分も日本社会の一員。助けるのは当たり前」と言う。ソーさんは住居や家族を失った人の気持ちがよく分かる。「国を追われた僕は家を失った人間と同じ。長く日本にいる間に両親は死んだ。でも、いつかは母国に戻りたい」と望郷の念を語る。

高田馬場に来ればミャンマーを感じられる

 ミャンマー人は1990年代、実は西武新宿線の中井駅周辺に住む人が多かった。同国出身の仏教の僧侶がいて、彼の営む寺院がコミュニティーの核になっていたという。時を経るとともに、便利な高田馬場に移ってきたのである。
 「ミャンマー人は日本橋、門前仲町、木場などの飲食店で働く人が少なくない。地下鉄東西線で乗り換えなしに帰れる高田馬場は便利だ。夜遅くまで仕事をした帰りに、駅前で一杯という人もいる」と語るのはNPO法人「日本ミャンマー・カルチャーセンター(JMCC)」のマヘーマーさん。JMCCは、子どもの学習指導などミャンマー人に対する日本語支援とともに、両国の文化交流を進める団体だ。在日ミャンマー人の様々な相談にも乗っている。
ミャンマー人青年と話をするマへーマーさん
 高田馬場駅から徒歩4分。JMCCの事務所があるアパートの一室に入ると、壁にはミャンマーの写真や絵、ポスターが張られ、竪琴が置いてある。マヘーマーさんは「ミャンマーの人たちがここに来ればほっとできるという場所をつくりたかった」と言う。部屋ではミャンマー人青年が日本人の主婦から日本語を習っていた。
 マヘーマーさんが日本に来たのは1996年。日本語学校を経て中央大学に進み、卒業後は日本の語学学校でビルマ語を教えた。高田馬場に来て、日本語ができず困っているミャンマー人が多いことを知り、その支援のため2002年にJMCCを設立した。JMCCのような団体があることも、ミャンマー人が高田馬場に集まる要因になっている。

日本のミャンマー人は自営を目指す

 高田馬場駅から徒歩10分の西早稲田にある「アジア料理 実の里」。アジア料理と銘打つが、ミャンマー・カチン族料理の店だ。店主のマリップ・センブさん(47歳)はミャンマーのカチン族出身。彼女も民主化デモに参加した。弾圧を避けるため、1992年に日本に逃れてきた。来日後は日本料理店や蕎麦屋で働いてきた。1996年に同じカチン族の夫と結婚。夫婦そろって難民認定を2003年に申請し、2005年に在留特別許可を得た。
カチン料理店を経営するマリップ・センブさん
 焼き肉店に勤めていた夫は2008年に独立。貯金に加え、金融機関からの融資を受け、西早稲田に焼き肉店「実の里」をオープンした。店の営業が軌道に乗ったことから、2011年3月、今度はセンブさんが「実の里」の2号店であるカチン族料理店「アジア料理 実の里」を開いた。「故郷の料理を出すのは、食べ物を通じて、自分たちのことを知ってもらいたかったから」と語る。カチン族はキリスト教徒が多い。西早稲田には東京平和教会カチン伝道所があり、日曜日には大勢の人が礼拝に訪れる。カチン族料理店を開くには絶好の場所なのだ。
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東京のリトル・ヤンゴン、高田馬場

民主化への弾圧を逃れた難民が起業家として活躍

2012年6月20日(水)
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 「アジア料理 実の里」を起業する際、NPO法人「難民支援協会」がセンブさんを支援した。店のインテリアや味付けを日本人に好まれるものにするようアドバイスし、宣伝のチラシも作った。来日したミャンマー人は自分で商売を始めたいという人が多い。難民の中には本国でエンジニアや弁護士などの専門職に就いていた人もいる。能力や経験がありながら、日本ではそれに見合った仕事ができないため、起業を目指すのだ。
西早稲田にあるカチン料理店「アジア料理 実の里」
 難民支援協会はこうした人を支援しようと、2012年3月に最大100万円を融資する公益社団法人「難民起業サポートファンド」を設立した。ファンドの正式な設立を前に、試験的な取り組みとして、センブさんの経営を支援した。協会の支援体制が整ったことで、今後センブさん夫妻のような難民起業家が増えることは間違いない。
 センブさんはチョー・チョー・ソーさんとは異なり、「ビルマ」という国名に愛着はない。ビルマ族ではなく、カチン族だからだ。ミャンマーには国全体の7割を占めるビルマ族のほかにシャン族、カレン族、モン族など数多くの少数民族がいる。冒頭に紹介した「タックイレブン高田馬場」にあるミャンマー料理店「ノング インレイ」はシャン族の店だ。
 この店を経営する山田康正さん(63歳)はラオス出身のシャン族。ミャンマー国境近くの町で生まれ、6歳の時にミャンマーに移住、ヤンゴンの大学に入った。大学卒業後、ラオスに戻ったが、1975年のサイゴン陥落でラオスが共産主義体制に移行したため、出国。タイの難民キャンプで6年暮らした後、日本に来た。波乱の人生を歩んできた人だ。店を開いたのは1998年。2002年に日本に帰化した。この店では4人のミャンマー人が働いている。

大統領の帰国要請に動揺

 高田馬場に住むミャンマー人は実に多様な人たちだ。とても一つには括れない。そのミャンマー人たちに今、動揺が広がっている。民主化路線に舵を切るテイン・セイン大統領が、海外在住のミャンマー人に「寛大な措置」を表明、帰国を呼び掛けているからだ。「国に帰りたい」「でも、戻っても大丈夫なのか」――家庭内でこんな議論が始まり、夫婦喧嘩まで起こっているという。
 民主化運動をしていたミャンマー人の間では、現政権の改革路線に懐疑的な見方も残る。大統領が改革姿勢を打ち出しても、政府内には様々な勢力があり、政権の末端まで浸透しているとは思えないのだ。迫害の恐怖や難民生活の苦労を味わっただけに、おいそれとは信用できないのだろう。あるミャンマー難民の活動家は「アウン・サン・スー・チーさんが日本に来て、戻っても大丈夫と言ったら帰る」と話す。本国から逃れた難民の中には優秀な人もいる。日本をはじめ、国外で国際的な経験を積んだ難民が帰国し、祖国のために働けばミャンマーの経済発展の貴重な戦力になることは間違いない。
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