2014年9月22日月曜日

9/21 4つのイベントを回って

2014年9月22日

①13時 三鷹国際交流フェスティバル Blogger




アラブ料理のディアブ・ガッサン先生 Blogger

 パレスチナのシチューとヨルダンのサンプーサ(アラブ風惣菜クレープ)をいただく。




パレスチナのシチュー Blogger




ウクライナのアメの詰め放題500円 Blogger





②14時半 イスラミックセンター・ジャパン友情バザー Blogger




シリアのお菓子 Blogger



スーダンのハイビスカスジュース




デーツを無料でいただく。 Blogger





③15時半 ナマステインディア2014 Blogger




④16時半 ネパールフェスティバル Blogger




マナンダイニング 食べログ ヒトサラ facebook 




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 なぜイベントに行くのか?

 イベントで何を得たいのか?

 どうしたいのか?


 三つの質問を満たす答えは、「感動したい」だ。

 感動を求めてイベントに行く。

 イベントで感動を得たい。

 感動したい。

では、どんなとき僕は感動するのか?

・未知との出会い。美しい物、美味しい物との出会い。
 おもしろい物語を知ったとき。

・親切な人との会話。

・より深く理解し合うために、facebookや実際のお店に行く。


それでは、なんで感動したいのだろう?

 新しいものの見方や感じ方を体験することによって、

心や精神が成長する気がするので。

 逆に、自分と異なる考え方をする人と会ったときに、
その人はどのような考え方で行動するのか考え、
どんなとき、どんな反応をするのか考えることができるようになる。


 たとえば、太平洋戦争のとき、戦争に反対する人を非国民と呼んだ。
また、ユダヤ人や朝鮮人、中国人を差別し、いじめた。
なぜ、いじめるのだろうか?
なぜ、いじめたり差別したりすることを止めないのか?

過去、現在を振り返って思った。
差別する人、止めない人は、別に悪いことをしていると思っていない。
とくに差別する人は、そうすることが当然で正しいと思っている。
その思いはどこから来るのか?
たいていは、環境のセイにする。
決まりだから、ルールだから、法律だから。
みんなが言っている、テレビや新聞で聞いたから。
見たり、聞いたり、命令されたりしたことが、本当に正しいか、
けっして自分で判断していない。
考えない人に、望む行動をさせるには、その理由を与えればいい。
言い訳さえあれば、たいていのことをする。
アイヒマンテスト(ミルグラムの実験)で明らかになったように。
つまり、誰でも簡単に人でなしになることができるのだ。
もっとも、そうなっている人たちは自分自身を他人でなしとは思っていないのだが。


 責任を回避する他律的な人が、自信を取り戻し、自律的になることはあるのだろうか?

もともと善悪を自分で考え、判断し、結果を真摯に受け止め、反省する人は少ない。
本来、経営者やリーダーは、自律的に考え、プラン・ドゥ・シーを繰り返す。
しかし、大企業や官僚のトップはどうだろうか。
まず自主的に責任を取ることはあまりない。
前例を重んじ、責任が生じるような新しいことは出来るだけ避ける。
そして、新しい事態や問題が生じても、認めず、過去と同じような対応を繰り返す。
前と同じ状況と説明するために、事実の記録を改ざんしたり、隠したりする。
悲しいことに、改竄したり、隠すこともルールなのだ。
自分自身がついた嘘に、いつしか自分自身が信じ、嘘を本当のように思い込む。

報道機関はネット上で過去の記事を削除し、
YouTubeで流されたり、ブログで引用されたりすると著作権を盾に削除を要請する。

未解決の事件は、報道されなくなると人々の意識から消え、
事件も消えたような気になる。

文学や映画は人を感動させる。

スカッと爽快な気分になるだけが感動じゃない。

どんよりと嫌な気分になり、心を傷つけられることもある。

その作品と出会って、生き方が変わることが本当の感動だと思う。


ながながと書いてしまったのには訳がある。


じつは、チベットを画像検索して、
ひどい状況をみてしまったので。

ジンギスカンは征服した国の風習や文化を重んじた。

もし、征服した民族が、その国の文化を認めなかったら・・・・。

どうしたらいいのだろうか。

利益に目が眩み、不正をしている人が、心を取戻し、
利益を分かち合い共存共栄する道を選ぶことはあるのだろうか。

歴史を見る限り、話し合いは、殴り合った後に行われ、
殴り合う前に、話し合いで解決することはなかったような気がする。

不足を感じないように衣食住が満たされれば・・・。
でも強欲にきりはなさそうだ。

ましてや、殴り合いをさせればさせるほど儲かるしくみならば、
殴り合いをさせない理由がない。

ふとメキシコのパンチョ・ビリャを思い出した。


 命令どおりにしても、にっちもさっちもいかず、頼るものがないとき、

人は他律的でなく、自律的になるのかもしれない。

そして、やれることをすべてやりつくしたとき、

はじめて祈る気持ちが起きるのかも。

もっとも祈りとは、感謝の気持ちと誓う気持ちを表すものだと言う。

自分自身のためだけでなく、他人のためにも祈れるようになりたい。

ゼロサム社会でなく、他人の歓びも自分の歓びとできる社会があると思う。

23:17




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