2012年11月25日日曜日

メモ:デンマークのエピソード

2012年11月24日 土曜日

リトルマーメイド 渋谷店 (渋谷駅中央改札内) 食べログ







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 結果よりも生きざまを重んじる。
 目先の利益に囚われない。損を恐れない。
 自分の生き方を持つ。

 国家に貢献してきたか、寄生してきたかは資産を見ればわかる。
 政治家が国家のために出なく私腹を肥やすために何をしてきたか。
 百歩譲って、政治家みずから国家に出資してもらおう。
 退職金、年金を返上し、全資産を寄付。
 そして、生活保護を受けている人と同じ生活をしてもらう。

 昔、国民は、兵隊となって命を賭けて国家を守ってきました。
 政治家は、命を賭けて自分の資産を守っているようですね。
 天下国家よりも、私腹を肥やしているようにしか思えません。
 まるで潰れそうな上場会社で社員の給料を減らしても自分の報酬を減らさない経営者のようだ。
 中小企業の社長は、自分自身の資産を注いで立て直しを図る。
 しかし、上場会社の多くの経営者は、資産を注ぐことなく、会社を食い物にしてつぶす。
 こうして国家もつぶされるのかもしれない。

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トップが語る大切にしたいこと


 私どものグループ名は、デンマーク生まれの童話作家ハンス・クリスチァン・アンデルセン
にちなんで名づけたものです。

 アンデルセンが童話を通じて世界中の人々に夢と希望を届けたように、
私どもも心をこめてつくったパンを通じて、みなさまの食卓に夢や希望を届けたいと
願ったからです。

1959年(昭和34年)創業者がパンの勉強に出かけたヨーロッパ、デンマークで
デニッシュペストリーに出会い、これを日本にはじめて紹介することになります。

 本場のデニッシュペストリーの作り方を学ぶために始まったデンマークとの交流ですが、
交流を重ねるたびにこの国の人々の「量よりも質を求める価値観」や「心ゆたかに生きる
生活の知恵」に感銘を受け、お手本としてまいりました。
「お手本は、いつもデンマーク」、私どもグループのポリシーです。

1948年(昭和23年)、原爆投下後の広島でたった4人でスタートした小さなパン屋でしたが、
「おいしいパンをお届けしたい」「パンのある幸せな食卓を囲んでいただきたい」という
当時の想いは今も変わりません。
一人でも多くのお客様に、おいしいパンを召し上がっていただきたい、おいしいパンがある
幸せな食卓を囲んでいただきたい。
その想い一筋に、アンデルセングループはこれからも、「品質第一」に努め、
ささやかながら、みなさまの食卓に幸せを運ぶお手伝いができますよう努めてまいります。

株式会社アンデルセン・パン生活文化研究所
代表取締役社長
髙木 誠一


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アンデルセングループとデンマーク


・なぜデンマーク?


 創業者 高木俊介は1946年に戦地より復員。被爆し荒廃した広島で、彼に勇気を与えてくれた本が内村鑑三の著した「デンマルク国の話」でした。それには1864年に戦争に敗れ、最も肥沃な土地を割譲されたデンマークが、一人の工兵大尉ダルガスによって復興してゆく様が記されていました。「戦いに敗れても、国は亡ばない。」というこの話は当時の日本の状態と二重写しになり、それがデンマークへの憧れの発端となったのです。

 その後、1948年に「タカキのパン」を創業。1959年に初めてヨーロッパ視察旅行に出かけた際には、デンマークの生活や文化にじかに触れて共感、企業の優劣は規模の大小ではなく商品の品質、社員の品位、会社のポリシーにあることを改めて確認しました。

 さらにこの時、コペンハーゲンのホテルの朝食で食べたデニッシュペストリーのおいしさに感動。何とかこの本場の味を日本のたくさんの方に味わっていただきたい、とデンマークから技術者を招聘したり、日本の技術者をデンマークに派遣するなど、研鑽を重ね、日本で初めてデニッシュペストリーの商品化に成功しました。また多くのお客様に焼きたてのデニッシュペストリーを、との思いから、冷凍パン製法を開発するなどデニッシュペストリーとの出会いは企業の将来を切り開く大きなエポックとなったのです。

 1966年に初めてデンマークに社員を派遣して以来、これまでにのべ500名を越す社員を派遣。また、従業員を対象にしたデンマーク旅行を企画・催行してきました。デンマークに学んだことは単に商品のみではありません。デンマークで暮らす人々の生き方、考え方こそが企業の真のお手本になっています。

「たくさんのモノを持つよりも、よいモノを持つこと」

を重んじ、何よりもまず、自分自身の日々の生活のクオリティを高めることに積極的で

「本当によいモノを必要なだけ」

というデンマークの人々の姿勢は、少なからず

「規模の大小ではなく、商品と人のクオリティを追及し、企業のポリシーが受け継がれる会社」

でありたいという企業の生き方の指針となっています。

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あゆみ

1981年4月
 デンマーク王国マルグレーテⅡ世女王陛下並びにヘンリック王配殿下、広島アンデルセンご来訪


1986年3月
 創業者高木俊介(当時会長)、デンマーク王国より中国地方4県における 名誉領事を拝命


2001年5月
 社長髙木誠一がデンマーク王国よりダンネブローク騎士勲章を拝受


2008年5月
 デンマークに初出店、コペンハーゲン市のオスタブロに、アンデルセンをオープン


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グループストラクチュアー

・㈱アンデスセン


広島アンデルセン、青山アンデルセンをはじめ、
全国に小売直営店舗「アンデルセン」を展開。
街のホームベーカリーとして、
心地よい雰囲気のもとでヨーロッパの本格のパンを
お届けするだけでなく、 それぞれの街にあった
「the Bakery and more - パンからはじまる、ヒュッゲな暮らし。」を
多彩にご提案しています

本社所在地 : 広島市中区鶴見町2-19 ルーテル平和大通りビル
資本金 : 1億円
代表取締役 社長執行役員 : 吉田 正子


・㈱マーメイドベーカリーパートナーズ



冷凍パンシステムを活かしたお店として、「リトルマーメイド」
「カフェデンマルク」「マーメイドカフェ」「デニッシュバー」などを
全国にフランチャイズ展開。
出店からパンの製造、販売、売場づくり、経営分析にいたるまで、
店舗運営をトータルにサポート。
それぞれの街に根づいたお店を、
パートナーの皆さまとごいっしょにつくっていきます。

本社所在地 : 東京都品川区東品川2-6-4 G1ビル
資本金 : 4千万円
代表取締役 社長執行役員 : 吉田 之彦


リトルマーメイド:342店
カフェデンマルク:12店
マーメイドカフェ:7店
デニッシュバー:21店
(2012年4月1日現在)




・㈱タカキベーカリー



小売の視点から、ヨーロッパの伝統的な石窯パンをはじめとする
タカキベーカリーならではのパンを開発、製造。
そのおいしさを小売店舗へお届けするだけでなく、
独自の冷凍技術を活かし、冷凍パン生地や焼成冷凍パンなど、
高品質でフレッシュな商品を全国へ提供しています。

本社所在地 : 広島市安芸区中野東3-7-1
資本金 : 6千万円
代表取締役 社長執行役員 : 林 春樹



・㈱タカキフードサービスパートナーズ


フードビジネスを展開されるパートナー様のお役にたてるよう
冷凍パン生地から焼成冷凍パン、冷凍洋菓子・焼菓子、
サンドイッチ用フィリング、フードメニューまで幅広く取り揃え
ご要望にきめ細やかにタイムリーにお応えします。

本社所在地 : 広島市安芸区中野東3-7-1
資本金 : 1千万円
代表取締役 社長執行役員 : 松本 貞夫



・㈱アンデルセンサービス


グループの横断的な基盤を整備し、
各社のスムーズな事業遂行を支援。
総務や人事、財務、会計、品質保証、システム開発、
リスクマネジメントやコンプライアンスなど
グループ内の専門業務を担当しています。

本社所在地 : 広島市中区鶴見町2-19 ルーテル平和大通りビル
資本金 : 1千万円
代表取締役社長 : 萱島 頼子




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http://sverige.blog53.fc2.com/blog-entry-205.html


ヒュゲ Hygge デンマーク


デンマークにあってスウェーデンにないもの、それは・・・ Hygge (ヒュゲ、ヒィゲ)。

なんだか、デンマークガイドみたいな書き出しになってしまった。

ヒュゲ hygge とは、デンマーク特有のもので、外国語に訳すことはできないと言います。 実際、スウェーデン語には hygge に値する言葉がありません。 「Mysig (スウェーデン語で、暖かくて居心地の良いという意味)とは違うの?」と聞くと、「それがスウェーデン語では一番妥当な単語だけど・・・ピッタリ当てはまるわけじゃない。 Hygge は、もっと意味が深くニュアンスが広く、とにかくデンマーク独特なんだよ」と言います。

それは、ゆったり寛いだ雰囲気だったり、家族や友人達と共に過ごす心安らぐひとときだったり、夏の夕べに涼しい風に吹かれながらビールを味わうことだったり、寒い冬に暖炉で暖まる部屋の中で皆と語らうことだったり、おいしい食べ物やワインをゆっくり楽しむことだったり、窓辺に燈るキャンドルの火を見つめることだったり・・・ 精神性や哲学にも(?)通じ、デンマーク人が、とても大切にすること。 それが、hygge。

お金で買うことはできない。 でも、デンマークの街角を歩いていれば、ほら、あなたも hygge に出会えます。




あるパブの前に出ていた看板。 「普通のビール15kr リッチなビール25kr ヒュゲ0kr」 う~ん、昔、某ファーストフードチーン店で「スマイル0円」なんてやってたのを思い出してしまいましたわ。 

ここ数年、デンマークは外国人排斥の気運が高まり、アメリカ的物質主義が尊ばれ、のんびりした以前のデンマークらしさが失われてきたと言います。 それでも、スウェーデンにはない雰囲気がデンマークにはあるんですよね。 スウェーデンに疲れると、ふらっとデンマークの空気に触れに行きたくなるのは、hygge のせいかもしれません。


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http://mitsui.mgssi.com/terashima/nouriki0609.php

デンマークという国


 内村鑑三が「デンマルク国の話」を書いたのが1911年のことだから実に95年も前のことになる。内村は、デンマークが1864年のドイツ・オーストリアとの戦争に敗れ、失意の底から立ち直った過程に注目して、感動的な話を紹介している。つまり、ビスマルク率いるプロイセンがウィルヘルムⅠ世をドイツ帝国の皇帝に押し上げていく中で、敗戦国として南部の肥沃な土地を奪われてしまったデンマークの悲劇を国民的指導者エンリコ・ムリオス・ダルガス(1828~94)が克服していく話である。「戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大な民である」と内村は述べる。まるでそれから34年後に訪れる日本の敗戦を予感していたかのごとき内村の目線の確かさは心に沁みる。

 ダルガスは「ユトランドの荒野を薔薇の花咲くところへ」というフレーズを掲げて、農業と畜産と植林によってデンマークを豊かな国へと蘇えらせていく。「牛乳をもって立つ国」としての姿を整えていくのである。ダルガスの父方の先祖はフランスのユグノー派(カルバン派キリスト教徒)の子孫であった。つまり、16世紀後半のフランスで吹き荒れた宗教戦争(ユグノー戦争)を背景に、カトリックの弾圧によって欧州各地に逃れたユグノー派の人々が「自由と熱信と勤勉」を移植して失意のデンマークを支えたのである。この話は、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」(1905年)にも通じるもので、克己奮励の倫理、質素倹約という強い精神性をもって経済活動に立ち向かった人達の情熱の背景には何らかの宗教性を見てとることができる。

 敗戦で国土の3分の1を失い、人口も250万人から170万人にまで減少したデンマークに対し、ダルガスは「外に失ったものは内で取り戻す」と呼びかけ、1866年に「原野開発会社」を設立、ひたすら開墾地を守る防風林を植林する事業に邁進した。農地を増やし協同組合方式を採用して、付加価値の高い農業を目指して酪農に転換していくことを通じ、「農産物輸出大国デンマーク」の礎を築いたのである。

豊かで存在感のある国


 現在、日本の食料自給率はカロリーベースで40%であるが、デンマークのそれは300%とされる。とりわけ、豚肉や鶏肉や酪農製品の輸出国として欧州の胃袋を支えており、農業を基盤にした豊かな社会を実現している。人口540万人の小国のデンマークだが、2004年の1人当たりGDPは4.7万ドルと英国の3.6万ドル、ドイツ・フランスの3.4万ドルよりも1万ドル以上も高い水準にある。

 エネルギー政策においても際立った特色を有し、電力消費の2割を風力発電で賄う目標を掲げ、驚くほどの情熱で取り組んでいる。「アンデルセンの国」というイメージが強く、人魚の像が代表的観光スポットとされるが、実際に訪れて人魚の像を背景に写真を撮ると、発電用の風車群が写ってしまうほど風車が目立つ。風力とバイオ燃料、すなわち自然エネルギーによる供給に重点志向しているのがデンマークの特色なのである。必ずしも成功しているとも言い切れないが、エネルギーの外部依存を極力避け、再生可能エネルギーによる供給を志向するという政策思想は注目に値する。

 国の在り方を考えるとき、この国の個性には考えさせられる。消費税率が25%と驚くほど高い。教育・福祉・医療が公的に負担される一方で、いわゆる「高福祉・高負担」の構造になっているのである。しかも、注目すべきは海外経済援助の大きさであり、国民1人当たり海外援助額で日本の3倍、世界一である。国連が目標としている「国民所得の1%」という海外援助水準を実現している唯一の国であり、国際社会の敬愛を集めている。「共生への責任」という表現を耳にするが、競争主義・市場主義が吹き荒れる世界潮流の中で、腰の据わった覚悟がなければ持続できることではない。国家の放つメッセージとは、その強い戦略意思によって伝わるものなのである。

 コペンハーゲンを訪れて、不思議な印象を抱くものの1つがチボリ公園である。世界のエンターテインメント・パークの原点とも言われるこの公園は1843年に開園している。あまりに有名な公園だけに期待して訪れると、その小ささに驚かされる。その外延を散歩したが、せいぜい250メートル四方で後楽園遊園地どころか浅草花やしきもない広さである。巨大な絶叫マシーンもなければ、手の込んだアトラクションもない。ただ、実際に訪れてみるとほのぼのとして楽しい。数十軒ものレストランと夜店のような商店やゲームコナーが並び、散策して美しい花壇を味わうだけで十分に楽しめるのである。多くの市民が「年間パス」を買って大切にこの空間を楽しむ「参加型のパーク」として特異な光を放っている。

日本とデンマークとの関係


 実は、日本とデンマークは因縁浅からぬ関係を有す。1870年(明治3年)、前年が五稜郭の戦いで、戊辰戦争の硝煙がまだ消えぬ局面において、日本は「ウラジオストック-長崎」「上海-長崎」という2つの電信用の海底ケーブルの敷設を決定した。翌年の1871年(明治4年)には早くも完成し、日本と欧州は電信で繋がれた。この工事を請け負ったのがデンマークのグレート・ノーザン・テレコム(日本名「大北電信」)であった。「コペンハーゲン-ラトビア-モスクワ-イルクーツク-ウラジオストック-長崎」というルートであった。

 むしろ日本国内での電信線の敷設のほうが手間取り、1870年の東京-横浜間で最初の電信取り扱いが開始されたが、東京-神戸間は1872年(明治5年)10月、長崎までの電信線が完成したのが1872年2月であった。欧州から長崎までのケーブルのほうが先に完成していたのだから皮肉な話である。建設技術の稚拙さもあるが、電信はキリシタンバテレンの魔法だという、民衆の妨害行為も障害となった。

 この時、デンマーク政府の特使J・シックとの交渉に当たったのが、外務大輔の地位にあった「日本の通信の父」ともいわれる寺島宗則であった。旧名松木弘安という薩摩藩出身の医師であった寺島は、1862年(文久2年)の幕府の遣欧使節(竹内下野守一行)の一員として欧州を体験、パリで電信所などを見学して眼を開かれ、維新後は国営電信の立ち上げを一任されることとなった。諸外国の事例を深く研究し、大北電信との交渉では、「デンマークの独占を拝し」「免許を30年間に区切り」「日本国内での内陸敷設は日本自前で行うこと」など、国益と大局を誤らない交渉力をみせている。

 情報通信の分野におけるデンマークの先進性は今日にも引き継がれているといえる。「ネットとメディアの融合」という言葉が、次世代の放送分野のビジョンのごとく語られ、ホリエモンをはじめとするネット関連ビジネスの関係者が放送事業に参入しようとするときのお決まりのフレーズとなっているが、現実にネットとメディアの融合において世界の先行モデルとなっているのが「デンマーク・ラジオ」である。

 英国のBBCや日本のNHKのような公営放送事業で、決してラジオだけの会社ではなく、多チャンネルのテレビ放送も展開している。このデンマーク・ラジオの事業にソフトウェアとシステムサポートで参入している日本SGIの和泉法夫社長との縁で、コペンハーゲンのデンマーク・ラジオ本社を訪問する機会を得た。フルデジタルを採用したデーターベースともいうべき「アーカイブス(デジタル・ライブラリー)」への投資が充実していて、番組ソフトの制作・配信・利用から視聴者の参画までが柔軟かつ多様に展開できる基盤が構築されているという印象を受けた。インターネットの基本性格が米国の軍事情報ネットワーク(ARPAネット)に由来するごとく、ITは「米国主導」の印象が強いが、次世代ITを志向する時、意外なほど欧州に参考となる先行モデルがあることに気づく。


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