2015年1月28日水曜日

タジキスタン料理

国旗 
 サイト「世界の国旗」より

タジキスタン国旗

タジキスタン

 ソ連共和国時代は連邦旗の赤旗に白・緑の横縞をデザインだった。そのデザインが、独立後の1992年に制定された現在の国旗にもいかされている。赤・白・緑の横三分割旗だが、中央の白は赤・緑の1.5倍の幅になっている。緑は山岳国ゆえ貴重な緑の平地を、白は主要産出物である綿を、赤は国家統一および他国との友好を表している。中央には、国章にも描かれている黄色の冠と7つの星がデザインされている。

2015年

1/27 JICA地球ひろば J'sCafe タジキスタン料理 プロフ Blogger







国の説明




国章
 ウィキペディアより cf.紋章学




外務省の地図
 外務省のサイトより



Googleマップ
 300×300px

 

駐日タジキスタン共和国大使館 

Web facebookなし twitterなし


友好団体のサイト
 Web facebook twitterなど 2015年1月27日なし


国際理解教材
 サイトより 愛知万博出展国120ヶ国のみ

料理の説明

・タジキスタン料理 ウィキペディア

 パラウ(プロフ、ピラフ) 、別名:オシュ は他の中央アジアの周辺地域と同じく、タジキスタンの国民食であり、緑茶が国内で広く愛飲されている。伝統的なタジキスタン料理ではドライフルーツやナッツの盛り合わせとハルヴァが食事の最初に出され、他にも小皿で甘味が出された後スープや肉料理が出され、最後にパラウが出される。

・e-food タジキスタン料理

・日本タジキスタン通商事業支援株式会社 タジキスタン 民族料理

ソ連邦料理のすすめ ⇒ ウズベクとタジキスタン料理 サイト

 出典はB.B.パフリョフキン 「わが諸民族の民族料理」(1983年 モスクワ 軽食品工業出版所)


・クックパッド


・食べログ

・世界206ヶ国を旅して その土地の食 タジキスタン料理

 中国の「ラーメン」の名が転じて、ラグマンまたはラグモンに

 山羊や仔牛の頭をまるで魚の頭のように食べる

・NDISH なし

・ToshTosh Cafe なし

・kuitabi193ヶ国 タジキスタン料理プロフを自宅で

 この国の特徴的なところは女性は眉がつながっている方が美しいとされていること!!


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リンク

・タジクの風 サイト  ☆料理  ブログ

・大使館の食卓 第93回 駐日タジキスタン共和国大使館 サイト

・国際理解教材 サイト

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・タジキスタンの内戦を止めたラストサムライ:秋野豊 サイト

 とても大切な話なので全文引用させていただきました。

秋野豊

ありえへん∞世界で紹介された

●タジキスタンの内戦を止めたラストサムライ:秋野豊
1990年代初頭、ソ連から独立したばかりのタジキスタンは、
政府側と反政府勢力で激しい内戦が繰り広げられていた
1994年に停戦合意がなされるも、内戦は続き、
幼い子供までも銃を持ち戦地に駆り出されていた
40代だった秋野は、筑波大学で旧ソ連圏に関する歴史を教えていた
彼は大学教授として型破りだった
ソ連崩壊から間もない激動の時代を自らの肌で感じるため、
旧ソ連圏を自分の足で見て廻る現場主義の人だった
そんな秋野が当時、最も関心を寄せ心を痛めていた事こそが、
タジキスタンで激化する内戦…
1998年、日本の外務省がタジキスタンの紛争解決のため専門家を募った
秋野の元にも外務省からの誘いが届いた
秋野には愛すべき妻と2人の娘がいる
紛争解決の力になりたかったが、
家族のことを考えるとどうしても決断することが出来なかったという
悩み抜いた末、遠い異国の平和のためにタジキスタンに渡る事を決意した
大学へ辞表を出しタジキスタンへ旅立った
現地に着いた秋野は、凄まじい内戦の惨状を知った
100万人の国民が他国に亡命、5万人以上が戦争で命を落とし、
5万人以上の子供が孤児となった
この紛争を止めるために国連職員として政府側であった彼は、
反政府軍のリーダーたちの元へ足を運び、解決のための対話を試みた
そのリーダーたちは野戦司令官と呼ばれ大小様々な規模のグループが存在していた
秋野は彼らに いつ銃口を向けられてもおかしくない状況で、
平和的な解決のために果敢に話し合いへ向かった
秋野は彼らに取り入るためにほとんど下戸にも関わらず
野戦司令官と酒を酌み交わし、何とかして距離を近づけようとした
当時500人以上を束ねた大型グループの野戦司令官:ニゾーモフ氏によると
「秋野さんは何回も私の家を訪ねてきては一緒に食事をしたりサッカーをよく一緒にしたね。私の部下の事をよく考えてくれて、いかに平和的な条件で和解することが出来るか、政府と反政府だった私たちの間を愛情を持って最後まで取り持ってくれた。それまで政府に秋野さんのような人はいなかった」
こうした秋野の活動はのべ90日間にわたり、10人以上の反政府軍リーダーと対話した
するとそれまで和平交渉に一切応じる事がなかった反政府軍の中に武装解除し降伏する者たちが現れ始めた

それは遠い異国からやってきた日本人が起こした奇跡だった
終わりの見えなかった内戦が和平へ向かった大きな第一歩
そんな彼に現地のタジキスタン人は尊敬の意を込めてラストサムライと呼ぶように
そして最後の大物 野戦司令官:ミルゾ・ジヨーエフとの和平交渉が成立
和平に向け大きな手ごたえを感じていた秋野
“あともう少しだ きっとこの国は平和になる”

その帰り道…秋野は20発以上の銃弾を受けた状態で交渉の翌日 谷底から発見される
それは和平を望まないゲリラ組織の若者による犯行だった
1998年7月20日、享年48

秋野は大きな夢を実現させるその直前、志半ばで帰らぬ人に
タジキスタン国内では秋野の死が大きく報じられ、
彼と関わった全ての人間は敵味方関係なく悲しみに暮れた
秋野の死から2年後、内戦が終結した
秋野の平和への活動はタジキスタン政府より感謝され、
2006年7月にタジキスタン大統領から友好勲章を授与された
さらに秋野の名がついた大学が建てられるなど、
亡くなって16年経った今でも彼はタジキスタンの人々から尊敬され愛されている (4333)

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